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個別主義の壁

6月に入り、ゆっくりとZOOMを授業に導入した。そもそも表面的な接触が本質の理解に繋がるとは思えないため、ZOOMもまた限定的な使用ではあるが、それでもなお相互コミュニケーションは面白い。LMS(≒SNS)での交流が「文字」だとすると、ZOOMは「声のやりとり」となる。「声」に過剰な期待を抱くのは得策ではないが、やはりこの仕方で見えるものもある。オンライン授業は相変わらず面白い。

「個別主義の壁、普遍主義の壁」というテーマを掲げた学会が延期となり、同名のシンポジウムの構想は来年に向けて練り直さねばならない。これまでの「堀辰雄におけるプルースト受容」を少し拡張しようと考え、様々なテクストを読んでいる。その中で小林秀雄の「自意識」を巡る考察が興味深く、おそらくこれまでの研究テーマと有機的な繋がりを見せるという予感がある。

小林の文芸批評は、自意識を出発点とした他者(作品)との対峙である。作品は「自分を見る鏡」となり、プルースト的に述べると「他者の世界を自分の目で見る」という「魂の交流」が繰り広げられる。ただし、自分以外の人間が執筆した作品との対峙の中で、真の意味での「他者」が見出されたらどうするか。絶対的な「他者」に対して我々はいかにアプローチするべきか、そのアプローチは意味があるのか、仮に他者とのコミュニケーションが途絶してしまった場合にどのような世界を構築していけばよいのか……

自意識から出発した文芸批評の問いは、絶対的な「他者」を巡るものへと発展していく。他者と触れ、つながり、異文化圏を行き来する時代にあって、他者に開かれた交流が求められる一方で、その他者の「他者性」に接する術を少なくとも僕は知らない。「個別主義の壁」をめぐる考察は、文学読書を通じて見出される「他者」の主題と関わってくる。「鍵」はやはり自分と他者が紡ぐ「ことば」だ。

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