倉橋由美子『聖少女』

に関する断片的な感想。(まだ書き途中。)

文体がとにかく絢爛。かつそれに本人が強い自負があり、才覚を持ってして、現代小説やその他テキストを厳しく睨んでいるといった印象を受けた。(一方で著者と語り主体を同一視すべきかという問題は存在する。)

源氏物語の原始的な主題と仏教説話に見られる紫式部の末路を想起した。美の追求。とそれが"現実"には不可能だという逃げられない答案。

著者の美意識(著者に見られればひどく蔑まれそうな表現だが…。)が、登場人物の青年に、ヒロインに、青年の男友達に、これでもか散りばめられている。かつ蔑むべき人間も各場面に必ず描かれている。(ツトム、母、未紀の母、入れ子の外のMなど。)関係性についても同じ事が言える。近親相姦、まさに究極の美とも言える近親相姦、同性愛が根をはやし構成された小説なのだろう。

未紀と僕がパーティを抜け出して海岸を駆ける場面がすごく良かった。読んでいてこちらまで叫びたくなるような、焦り、後悔、歓び、若者の虚しさが溢れていた。教養が深く大人びた登場人物の瑞々しさが輝いていた。一番好きな場面。

文体という面で非常に批評性、普遍性が強い。一方で、未紀の記憶喪失の謎が明かされるという面ではやや一回性がある。それでも悪い意味での一回性ではなく、驚くべき種明かしとして機能している。微量なミステリー的エンターテイメント性と文体、比喩、表現の普遍性が見事に両立した作品と言えよう。

アンポ、コミュニスト。この時代の人からすれば避けられない主題なのだろうか。僕らの時代には何があるのだろう。大震災、コロナ禍。つまらない「国」と「国民」の単純化した二項対立しか見えない。そう感じてしまうのはやはり勉強不足だからだろうか。

今時時代遅れな視座かもしれないが、作者が女性、更にそれでいて主人公が残虐な青年という点にも注目すべきだろう。何かの書籍で「安部公房と倉橋由美子、この二人の純文学作家の作品には私小説的要素が皆無である。」という文を目にした事がある。関係があるか…?

本屋を眺めても本作者の作品は殆ど見られない。ある種の到達点とも言える絢爛な文体はもっと多くの読者に注目されるべきだと思う。愚を嗤い、美に耽る。そんな残虐性を、読者にも同時代以降の日本作家の喉元に突きつけた作品と言える。一般で見れば無名なのが非常に残念である。

とりあえずこの辺り。


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