さらばnote

先日、アカウント作成から一年を迎えたらしい。noteの機能追加を待っていたが、それよりも早く俺の萎えがやって来た。お別れの時である。惜しむ者が無いのが数少ない救いだろう。

最後に、にじペクスについての持論をまとめておこうと思う。無論、届いたコメントは見ないので返す可能性は0だ。好きに使うと良いだろう。

生まれたときから嫌われ者 それでも

にじペクスはどのようにすれば荒れなかったか、を考えている人々は多かったが、はっきり言う。無駄な労力お疲れさん。

にじさんじ主催のapex。それがどんな形でどんな名前で発表されていようと、参加者の比率がどうであろうと、経緯の説明があろうと無かろうと、そんなものは枝葉に過ぎない。apex配信に対して冷たい目が向けられている状況を考えれば、どんな形であれケチは付けられただろう。

奇しくも、ダブルスタ丼氏がこれを証明してしまった。氏は以前の記事で「メンバーをごちゃ混ぜにした大会の開催がにじさんじの視聴者離れに繋がっている」「apex配信は見たが退屈で視聴を辞めた」と語っていた。

そんな人物が、今度は「にじさんじ全員の大会を見たかった私達」等と言い出したわけである。

一体誰に信じてもらえるのだろう。もし初回から60人にじさんじ大会を揃えたなら、それはそれでケチを付けるだろうという信頼と実績が彼にはある。……いや、整合性とかを考えない連中には持て囃されたけどね?

氏にコメントを寄せたのもその辺りに起因する。「君がでしゃばると批判側の正当性がすっ飛んでいくから止めておきたまえ」だ。

にじさんじが批判をかわすには、大会を企画しないこと。これしかなかったと断言出来る。その程度には、apexは疎まれていたのだから。

この場合最大の焦点は、運営側がそれに気付いていたかどうか?だ。

もし、万雷の喝采と共に受け入れられて当然のこと、と考えていたならはっきり言う。にじさんじはもう数年も持たないだろう。視聴者の声や空気感に鈍過ぎるからだ。ついでに言えば、この場合改善など望むべくも無い。

無論想像に過ぎないが、ある程度批判もやむ無し、やりたい事をやらせようの精神で企画を進めたのでは無いかと思う。贔屓目が入っている事は否定しないが、にじさんじの根底が「ライバーのやりたい事を叶える」である以上、無理な擁護になっているとは思わない。批判の声が想像を幾分ならず越えていただろう、とは予想するが。

ライバーのやりたいと、視聴者の見たくない。どちらを優先するかは常の正解が無い選択だろうが、可能な限りライバー側を優先してきたにじさんじ「らしさ」を信じたく思う。

自由は視聴者によって奪われる

にじさんじらしさ、と言った。果たしてにじさんじらしさとはなんの事なのだろう。強いて言うなら、それは自由さだ。

活動頻度、内容、スパチャ、メンバーシップ、案件。にじさんじ所属のライバーはことごとくバラバラで、それが許されている。毎日配信しようと、去年4回だろうと、それを運営が咎める様子はない。たまには配信しましょう、という連絡が飛ぶらしいが、現実に配信していない以上、あくまで本人に任せているのが解る。

自由は良いことばかりではない。それが結果的に下らない噂を呼ぶこともある。問題を起こすこともある。愚かな対立煽りを招くこともある。それでも、配信を聞いていれば感じる自由な気風を保つからこそ、にじさんじらしさが人にも伝わるというものだろう。

ところが、にじペクスの批判者らの中にはにじさんじらしくないから、という理由で大会を批判する者もいる。Rei Rain氏の記事がそうだ。

氏はにじさんじらしさを定義した上で、らしからぬ大会を開いたことが荒れた要因であると語る。

らしさ、の定義は個々で違うだろう。それは仕方ない。だが、らしからぬ事をする自由も許されるはずだ。それとも、にじさんじのメンバーは視聴者の望む人形のごとく、求める振る舞いのみをすべきなのだろうか。視聴者の要望から外れた上は、強く批判されるのもやむ無しなのだろうか。

そんなバカな話はあるまい。視聴者は金を払って求めるモノを見に来た客ではないのだ。彼らの自由にやらせて、それからその評価もまた自由に行われるべきだ。

しかし、現実は無情である。もし、今大会の参加者が「次回もプロ混じりで開催したい」と願ったとて、誰が許してくれるだろう。今のにはペクスに肯定的な人々の多くも、それは許すまい。斯くしてVtuberの自由は徐々に奪われていくのである。自由を奪われた彼らがどうなるかと言えば…

最後に

書こうか書くまいかをずっと悩んでいたが、最後なので書く。「にじペクスはこうすれば良かった、あれは間違いだった」、と語るのは本質的に「桐生ココは卒業宣言でこう言えば良かった、あの言い方は間違いだった」と言うのと同じだ。

言えないものには理由がある。それと同じく、出来ないものにも理由があるのだ。ああだこうだと都合良く解釈して、出来たはずだ、言えたはずだ、と言葉を弄する様は、実に醜かった。