小説「ぼくはわるもの」05最終話


ここまで僕の小説を読んでくれた方々、ありがとうございます。

また初めて僕の小説を読もうとして頂いてる方々、ありがとうございます。

「ぼくはわるもの」01も無料で公開しているでの、そちらも読んで頂けると嬉しいです。

05最終も無料で公開しようと思います。01・05、無料の部分だけでも

短編として楽しんで頂けるのではないかと思っています。

読んで頂いて、僕の文が暇つぶしにでもなれたら幸いです。

著作権注意2.

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小説「ぼくはわるもの」05最終話

<現在 杉山紫央>
十八歳の誕生日。
 帰宅すると深夜一時を回っていた。濃い口紅を塗ったような薔薇の花束を居間のテーブルに置いた。花瓶にでも挿して飾ってあげよう。添えられたメッセージカードには「紫央、お誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう。あなたに出会えて、私は幸せ。ママより」と書いてあった。店のママ、つまり天野先生が閉店間際に、歌と薔薇をプレゼントしてくれたのだ。誰かに誕生日を祝ってもらったのは初めてで、うれしくて、滝のように涙が流れた。
ほんとは頭の中に一つだけ、誕生日の思い出がある。
父と母の間に子供の私。三人が声を揃えて唄っている。ハッピーバースデイディア紫央、ハッピバースデイトゥーユー。父と母が、お誕生日おめでとう、と拍手をする。蠟燭の灯り火がショートケーキを黄橙に染めている。口をラッパみたいな形にした私が息を、ふー、と吹く。丸いホールケーキの真ん中にある蝋燭の火が揺らいで消える。そんな思い出。
六月に咲く紫陽花の「紫」と、父の名前から一文字「央」を貰って「紫央」。父の名付けた名前だ。父がいる時は、母も優しい顔をしていたのに。あの頃に、戻りたい。
 ママの店で働き始めてから二年が経過していた。週に三日、学校終わりに通い続けて、今ではステージに立って歌を披露できるまでになっていた。とは言っても、私の歌の実力はママと雲泥の差がある。それにまだ持曲の少ない私は、月に一回でも客前で歌える機会があれば良い方だ。何たってお客さんは、ママの歌声を聴きに来ているのだから仕方がない。
ステージに立った時の味を覚えてしまった。緊張、解放、快感、拍手、あそこには日常では味わうことのできない高まりがある。もう私は立派なステージ中毒だ。
ママに作ってもらった曲に、自分の書いた詩を乗せて歌うのだ。いつかは自分で作曲もしたいと思っている。高校でも二年生になってからは、音楽専攻のコースを選んだ。それによって年間の学費が少し上がったが、母は素っ気なく「いいんじゃない」と許してくれた。
いつか上木先生が「ただでさえ私立でお金の掛かる高校に通わせてもらってるんだから、親に感謝しないとな」と言った。いくら私に興味がないとしても、ただ育てているだけだとしても、母が働いたお金で生きているということは事実だ。これまで私は、それが悔しかった。いつか、これまでに掛かった学費は全て、母に返済すると決めていた。そう決めた時は意地のようなものがあった。返済するつもりなのは変わりないが、今はそうじゃなくて、私が働いて稼げるようになったら、母に学費を返すのは当たり前のような気がしている。
今日だって、きっと、私の誕生日を忘れて男の家に泊まってくるはずで、そんなのは慣れっこだからどうでもいいけど、そもそも帰る家があって、食べる物にも苦労しないで、私立の高校にも通うことができるのだから、私は恵まれているんだと、そんな風に考えられるようになった。明日か、明後日か、母がいつ帰って来るか分からないけど、顔を合わせることがあれば、ありがとう、を伝えよう。
 ママが書いてくれたメッセージカードを財布に仕舞って、お風呂場に向かった。シャワーを浴びる前に、洗面台で濃いメイクを落としていく。天野先生がママに変身するように、私も何者かに変身したかった。マスカラや太いアイラインが滲んで、妖怪みたいになった顔をお湯で洗うと、まだあどけない顔をした私が現れる。大人っぽい、とか言われることもあるけれど、やっぱり私はまだ子供の顔をしているのだ。だけど、どことなく灰汁が抜けたような、やわらかい人相になったような気もする。
あと十ヶ月もしないで、高校も卒業することになる。高校三年生の始めに行われた進路相談で私は、アメリカに留学する、と言った。英語を話す国なら、どこでも良かった。自分で稼いだお金を貯めて、海外に行き、そこでカフェのアルバイトでもしながら、歌と英語のスキルを磨こうと思っていた。英語の詞を歌い上げるママに憧れたのだ。それに何よりママが言った「あなたはまだ知らないことが沢山ある」という言葉が頭から離れないでいたからだ。海外に行けば見識が広がるなんて安易だけど、もう決めたのだ。母にはまだ、そのことは告げられずにいるけれど。
 もし一人で言えないなら僕が付き添うよ、と上木先生が言ってくれたけど、体育の先生が進路に関して保護者面談をするなんて変だよ、と断った。
そういえば、上木先生は、身内に不幸があったという理由で一週間ほど前から学校を休んでいた。上木先生の弟が自殺をしたらしいと、学校では生徒たちが噂をしていた。国語の友美先生も三日間ほど休んでいたが、昨日から授業を再開していた。
 鏡に映る私は、数年前のような思春期の眉間に皺を寄せたふてぶてしい女の子ではない。口角を釣り上げて、笑顔を作ってみた。なんて阿保らしいのだろうと白けてしまいそうになるけれど、私は毎日こうやって練習している。一人で悲しくなって泣いたりとか、そっちの方が「阿保くさっ」と惨めになるから笑うのだ。無理してでも明るくいようとすれば、それが普通になって、いつもだったら落ち込むようなことが起きても前向きに捉えられるようになるんだってことを、ママが教えてくれた。
「いつも悲しそうな顔をして、暗い雰囲気を纏っているのは、自分のことが一番好きだからよ。不幸のアクセサリーは外しなさい。そんなものを見せつけられるこっちの身にもなってみなさいよ。他人を嫌な気持ちにさせてまで、あなたは自分が不幸なことをアピールしたいのよ。あなたは今、自分のことだけを考えて悦に入っている、そんな人間なのよ」
 そう諭してくるママに、ぐうの音も出なかった私は、不幸のアクセサリーを外した。外せたはずだ。手首のリストカットの痕も装飾品で隠すことをやめた。隠すから何度も同じことを繰り返すのだ。ここ二年で、リストカットの痕は、目を凝らさないと確認できないくらいの薄い線になっていた。
上着の一番上のボタンを外した。胸元の、すっかり消えた傷を指でなぞった。現在の私は、自分の体を切らずとも、生きている、実感を持つことができている。歌が世界を変えてくれた。あの時の私に戻ることはもうない。次のボタンに指が差し掛かった時、玄関のドアが開く音がした。
誕生日に母が男を連れて来るなんて、今までだったら最悪の展開だと辟易するところだろう。甘えた母の声と、男の笑い声がする部屋を覗いてみた。ピンピンに逆立てた茶色の髪の若い男がソファーに座っていた。風貌からしてホストクラブの男であることは間違いない。男の肩に顔を埋めるように母が抱き着いている。「ねえ、紫央、お風呂?」と母が大きな声を出す。小さく息を吐いてから、私は扉をスライドさせた。「いま、入ろうとしたところ」
私を指差して「子供いるの?」と男は声を上ずらせて母に尋ねた。
「そう、紫央ちゃん。子供がいたらダメ」
「別にダメじゃないけど」
 私は母の足元に置いたカバンを取って「友達と遊んでくる」と言った。
「この花、どうしたの、彼氏に貰ったの?」
「そう」
「え、じゃあ何、彼氏のところにいくんでしょ」
「そうだね」彼氏などいやしないが、酔っている母と喋るのが面倒で、適当に返事をした。家を出て行こうとする私に「いってらっしゃい」と手を振った母は、男と二人きりになれることの嬉しさを隠しきれない表情をしていた。私は平気な顔をして「いってきます」と言った。
 飲み屋街にたむろする大人たちを尻目に、ひたすら地面を蹴って前に進んだ。ほんとのほんとは愛されたいのだ。私のことも愛してよ、って母に叫びたいけど、それを言うのも場違いなのだろう。寂しさを誤魔化そうとすればするほど、足並みは速くなった。
街を抜けると、大きな通りがあって、それに沿って続く緑道を歩いた。おそらく真面に呼吸をしていなかったからか、胸の下の辺りが痙攣を起こしている。夜露で湿った木製のベンチに身を預けるように倒れ込んだ。鼻筋を伝う水滴が汗なのか涙なのかは考えないようにした。
 いつもなら、こういう夜は決まって近所のカラオケで朝まで時間を潰し、寝室で眠る母と男には干渉しないようにして制服に着替えて登校する。明日、いや日付変わって今日は、土曜日で学校に行く必要はない。カバンから携帯を取り出して、履歴を表示した。
「もしもし、上木先生」
「紫央、こんな時間に、どうした?」電話越しに聞こえてくる上木の声は沈んでいた。他にも助けを請うことができる人間は他にもいたのに、身内に不幸があったばかりの上木を選んでしまったことを後悔した。だけど今の私には頼れるのは上木先生しかいなかった。私が唯一、友達と呼べる森蒼には余計な心配をされたくなかったし、さっき誕生日を祝ってくれた天野には自分のこんな状態をみられたくなかった。
「先生、今、会って話す時間ありますか」
「今? あ、紫央、誕生日おめでとう」
「え」上木の調子の良さは、たまに鼻につく時もあるけれど、私の誕生日を知ってくれている数少ない人間の一人だとすれば、貴重な存在だ。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「で、どうした? 今どこにいるんだ?」
「外です。家に帰りたくなくて」
「何してんだよ、こんな時間に」
「ちょっと色々あって」
「お母さんと喧嘩したのか?」
「まあ、そんな感じです。」
「ったく。こんな時間に出歩いてたら補導されるぞ。どこにいるんだよ」
周りを見渡して目印になりそうな建物を探した。「国立劇場の前です」
「そこにいろよ」と言った上木が電話を切った。からからと並木の葉を靡かせる風が汗ばんだ体を冷やしていった。
 

<現在 上木勇人>
 消印のない手紙、の送り主は弟のリクだった。弟の部屋に突っ立ったまま発見した赤い封筒の束を眺めていた。弟が送り主であることを疑ってはいたが、消印が付かないということはポストに直接投稿しなければならないという事実が、ひきこもりである弟を犯人像から遠ざけていた。
二十枚入りと記載された入れ物には中村文具と印刷されたシールが貼られていた。中村文具、そこは弟と行ったことのある文房具店だった。あの時、リクはこの赤い封筒を買っていたのだろうか。

教師生活が始まって一か月が経った五月の黄金週間のことだ。実家を訪れた僕は「散歩でもしないか」と弟に声を掛けた。「欲しいものがある」と弟は言って部屋から出てきた。僕は進藤の力を借りずに初めて弟を外に連れ出すことができた。弟と顔を合わせたのは病院に背負って運んでもらって以来だった。約一年ぶりにみる弟は相変わらず上下黒のスウェットを着ていて、手入れされていない長い髪と伸びっぱなしの髭が顔を覆い、のそのそと歩く様子はまるで、ナマケモノのようで気味が悪かった。
弟には不釣り合いの快晴な空と人混みの中を二人で散策した。
「何がほしいんだよ」
「毛玉取り」と答えた弟は落ち着きなく目玉をあちらこちらに動かしていた。毛玉取り、だったらわざわざこんな都会まで来なくても良かったのに、と思ったが、僕の確認が遅かったと反省した。「毛玉取りなら、あそこにあるかもね」
 日用雑貨を取り扱う大型の店舗に入って、弟は他の物に興味を示さず、目的の毛玉取り機に向かってまっしぐらに進んでいった。お金など持っていないであろう弟に「そんなに高価なものじゃなかったら何でも買ってやるよ」と言付けてはあった。毛玉取り機だけを僕に渡して「これだけ、買ってもらいたい」と弟は言った。
「本当にこれだけでいいの?」
「うん、これがずっと欲しかったんだ」
「他に欲しいものとかないの?」
「今はない、これでやっと、毛玉が取れるよ」と言った弟はスウェットの毛玉を指で捏ねていた。長らく洗濯されていない服からは、カビを生やした腐ったパンのような臭いがした。「その服も、新しいやつ、買ってやるよ」
「大丈夫、これはまだ着れるから、毛玉も取れるし」と答える弟に構わず、レジに向かう途中に目に止まった新品のスウェットを掴んだ。全く同じものではないが、無地で上下黒には変わりない。「洗い替えに、使えよ」
 会計を済ませ、出口で待っていた弟に袋を渡した「ありがとう」と小さな声を出した弟が軽く頭を下げた。僕たち二人を避けるように他の客たちが店に出入りをしている。物乞いをしている浮浪者に物資提供をしているようにでも見えているのだろうか。下賎な者を哀れむような、蔑んだ目を弟に向ける人々が通り過ぎていく。僕は弟の肩を抱いて、「帰ろう」と店を出た。
 車を停めていた駐車場に着くなり「やっぱり、欲しい物がまだある」と弟が言った。「文房具屋、行ってきていい?」駐車代を清算しようとしていた僕は手を止めた。「いいよ」
「兄ちゃんはここで待ってて、俺、行ってくる」
「分かった。これで足りる」僕はお弟に千円札を一枚渡した。「うん」と頷いた弟が僕の手から札を抜き取り、文房具屋に向かった。ここに戻ってくる道すがらにあった文房具屋の前で一瞬立ち止まった弟が「あ」と漏らしていたのを思い出した。
 十分も経たずに弟は戻ってきた。紺色の中村文具と印刷されたビニール袋を持っていた。ノートとペンだろうと高をくくり、何を買ったのかを訪ねることなく釣り銭だけを受け取った。後部座席に乗り込んだ弟は満足そうな表情を浮かべていた。
 
 紺色のシールに印刷された中村文具という紫色の明朝体の文字が、記憶と一致する。あの時、弟は赤い封筒やハサミ、ノリなど、消印のない手紙、を用意するのに必要な物を購入したのかもしれない。
 消印のない手紙、が友美に送られてきたのは七年前と二年前だ。
一度目は、友美の家に初めて行った七年前、この手紙のことを知った。それを怖がる友美が僕の家に避難してきて、浮かれる暇もなく同棲生活が始まった。この手紙の不可抗力が友美と僕を結んだのだ。実際、手紙はそれ以降に送られてくることはなかった。
 二度目は、友美が離婚を考えていたであろう二年前、忽然と送られてきた。旦那の弟が父親を殺したことで親戚から非難を受けていた友美は、僕と夫婦を続けることにくたびれていた。そんな矢先、消印のない手紙が再び姿を現したのだ。この手紙に夫婦で向き合ったことで、友美との間にあった蟠りは取り払われたように思う。
 つまり、弟が送り付けていた、消印のない手紙、は僕と友美を結婚に導き、関係が危うくなった時は繋ぎ止めてくれたのだ。弟の計らいなのだろうか。
 兄が初恋の相手と恋仲になる為に悪役を買って出たということなのか。次は自分が殺人を犯したせいで兄が妻との仲を拗らせてしまった罪滅ぼしをしたつもりだったのか。あいつがやりそうなことだった。
だとしても弟が外を出歩くなんて腑に落ちない。それに明らかに怪しい様相をした弟が誰にも不審がられずにマンションのポストに手紙を投函することなど出来るのだろうか。同じ封筒を持っているだけで、消印のない手紙の送り主が弟であると決めつけるには証拠不十分かもしれない。
 携帯がポケットの中で震動して、着信音が響いた。画面には「紫央」と表示されていた。画面の下側に誕生日を報告する蝋燭マークが点滅していた。
「もしもし」
「もしもし、上木先生」聞こえてくる紫央の声は弱々しかった。向こう側では車が走る音がして、風が葉を揺らし、からからと鳴っていた。どうやら紫央は外にいるようだ。
「紫央、こんな時間に、どうした?」
「先生、今、会って話す時間ありますか?」質問というより懇願に近い口調で紫央が訪ねてきた。答える前に足は玄関の方に向かっていた。なによりもまず「誕生日おめでとう」と伝えた。

 国道に沿って木々が植えられた遊歩道にあるベンチに私服姿の紫央が腰を下ろしていた。外灯に照らされた彼女は淑やかで、映画のワンシーンのように美しかった。紫央は窓越しに僕と目が合うと、駆け寄ってきて助手席のドアを開けた。「乗って」
 どこに行くとも決めずに車を発進させた。深夜に教え子を連れ回すのは、それなりのリスクがある。紫央が隣に座った瞬間から、心臓の鼓動が大きくなったのを感じた。
「ごめんなさい。こんな時間に、生徒といるとか、ヤバいですよね、先生」
「大丈夫だよ、見つからなきゃ」
 車内にはラジオが流れていた。しゃがれた陽気な声で、リスナーに語り掛ける男の言葉が無言の間を埋めてくれていた。しばらく紫央は何も言わず外の景色を眺めていた。「窓、開けていいよ」とだけ僕は言った。何があったのかを問い質すことはしないようにしようとする意識でいっぱいになり、気の利いた言葉も掛けてやれないでいた。「音楽でも聴く?」これが傷心の女子高生に言ってあげられる精一杯なのだから情けない。「はい」と答える紫央の声を確認して、ダッシュボードにある音楽の再生ボタンを押した。
「あ、これ」と紫央が呟いた。僕も直ぐに「あ、これ」と漏らしていた。二年前に紫央が聴いて、ずっとダッシュボードに挿入されたままだった。普段、車の中ではラジオを流しているせいか、ものの見事にCDの存在を忘れていた。
「先生に借りパクされてたCDだ」
「あーごめん、借りパクするつもりはなかったんだけど」
「私も忘れてたけど」
「だったら、おあいこだ」
 信号待ちをしている間にアタッシュケースの中を弄ると、透明のケースも出てきた。「はい、これ今度こそ、持って帰ってね」とケースを渡して、CDを取り出そうと再生機に指を伸ばした。「聴きたい曲があるの」と言った紫央が僕の手首を握った。
「先生、このアルバムの最後の曲、聴いた?」
「うん。むしろ、最後の曲しか真面に聴いてない」
「月の光」と言った紫央が握っていた僕の手首を離した。僕は曲順をスキップして電子画面に「月の光」と出たところで指を引っ込めた。調布を越えて玉川の河川敷まで来ていた。ここは夏になると有名な花火大会が開催される場所だ。一度だけ、友美とデートで訪れたことがある。川と夜空が一望できるところで車を停めた。示し合わせたかのように真ん丸な満月が浮かび、それが川の水面にも反射していた。紫央は黙って車内に響く音に耳を傾けていた。
 曲が終わって再生機から取り出したCDをケースに収めた紫央が口を開いた。「明日の夕方には母も男も家を出て行くと思うんです」
「それまで、どうするの?」
「朝まで一緒にいてくれませんか?」
「それはいいけど。カラオケとか満喫に行って補導されても困るしな」
「朝から適当に時間潰して家に帰ります」
「適当にって、何するんだよ」
「カラオケに行って、歌の練習とか、図書館に行って英語の勉強とか」
「そうか、なんか練習とか、勉強とか紫央の口から出ると面白いな」
「え、なんで」
「いや、だってあんな不良少女だった、紫央がさ」
「あんなって、別に今も見た目は変わってないですよ」
「変わってるよ。自分じゃ分からないかもしれないけど」
「だとしたら先生たちのおかげです」
「僕は何もしてないよ。天野先生のおかげだね」
「捻くれた子供の私を気に掛けてくれた上木先生に感謝しています。最初は、ただの偽善者だと思って嫌いだったけど、今は少し好きです」
 あまりに素直な言葉に思わず笑った。「少し好きって何だよ、まあ、嫌いから好きになってくれただけましか」
「蒼が先生のこと大好きだから、いいじゃないですか」
「ああ、あの子ね。あの子は、誰にでも大好きとか言うだろ、僕だけじゃなくて」
「そうでもないですよ。蒼は先生のこと本気で好きみたいですよ。男として」
「え、まじで」
「私は、先生みたいな偽善者には気を付けた方がいいよ。って忠告してます。あういう男は、どんな女にも優しくして思わせぶりの唾を付け回るのが得意なんだからって」
「大分、僕のこと悪く言ってくれてるじゃないか」
「間違ってますか?」
「偽善もできない人間は悪人だけど、偽善と分かってても人に優しくできる人間は、真の善人なんだよ。蒼は男を見る目があるな」
「先生って、いつもヘラヘラしてるし、誰にでも優しいけど、怒ったりとか我儘なこと言ったりとかしないんですか?」
「僕は何の取り柄もないから、せめて笑っていないと存在価値がないだろ。いつも誰かの都合に合わせて動いて、存在意義みたいなものを自分で生み出してるんだよ」
「先生も先生で、生き辛いんですね、この世界が」
「紫央は生き辛いのか?」
「私は、生き辛い世の中を、いかに楽しく生きてやるかって思考に切り替えました。天野先生の受け売りですけど」
「僕もそうだよ。そう切り替えないとやってられないもんな。僕の弟はそれができなくて、死んじゃったけど」
 そう言った僕の横顔を紫央が伺ったのが分かった。「亡くなられたのって、弟さんだったんですね」
「そうだよ、三日前に死んだ」
「すみません、そんな時に」
「いいよ、僕も気分転換になって、丁度よかった」
「弟さん、どんな人だったんですか?」今にも崩れそうなジェンガの塔から、慎重にひとつのブロックを引き抜くような口調で尋ねられた。弟の顔が脳裏に映った。写真を次々に捲っていくかのように弟の記憶を振り返った。「僕の弟は」と口を開いてみたものの、言葉が続かなかった。嫌悪感さえ抱いていたはずの弟なのに、蘇ってくる顔はどれもあどけない表情で愛おしく思えるものばかりだった。歪んでいたのは弟じゃなくて、僕だったのかもしれない。心の揺れが収まるのを待った。
「あいつは、いつも悪者を引き受けるんだ。トランプゲームでは僕が勝つようにわざとジョーカーを引くような変わった人間だった。ヒーローごっこをすれば、いつも僕が正義の味方で、弟は悪役だった。正義の味方は負けることがないからだ。駆けっこをすれば、僕より足が速いのに、いつからか弟は僕の前を走らなくなった。僕の初恋の相手は弟のことが好きだったんだ。弟もその女の子が好きなはずなのに、僕に気を遣って身を引いたんだ。それをいいことに、僕は女の子との会話を楽しむような奴だった。弟は優れた人間だった。それが許せなかった。それに気付いた弟は自分を捨てたんだ。開き直って平気な顔をして僕より劣った人間を演じた。優れた人間じゃない僕が、あいつよりマシだって思えるように。いつしかそれが当たり前になって、ついに弟は変な奴になってしまった。あいつをあんな人間にしたのは、僕なんだ。僕の醜さが、リクの綺麗な心を真っ黒にしていったんだ。本当の悪者は僕なんだ」
 僕の心の奥底に潜伏していたヘドロのような黒い塊が口から流れ出てた。空っぽになった腹の深部が痙攣を起こし、胃液が混じった嗚咽を吐いた。ごめん、リク。
 ハンドルに額を預けた姿勢で泣く僕の背中を紫央が擦ってくれていた。みっともないと、呼吸を整えようとすればするほど、リクと笑い合っていた頃を追想してしまう。
「きっと」と紫央が口を開いたのが分かった。「リクさんは、先生のことが大好きだったんですね」
「僕は、その気持ちを利用した汚い人間なんだ」
「先生は汚い人間じゃないです。今、自分が悪者になって、弟さんの死を受け入れようとしてませんか?」
「え?」
「リクさんは、自分でそうなることを望んだ。頭が良い人だったんですよね? 誰かの為に悪者になることが、リクさんにとっての喜びだったんじゃないですか? そういう変わった幸福感の持ち主だったんじゃないですか?」
「先生は、ただの良い人だと思います。私は。だから、弟さんの死を無理矢理、自分のせいにして清算しようとしなくてもいいと思います。ゆっくり心の中で整理すればいいと思います」
 そう言った紫央が柔らかい表情でこちらを見ていた。二年前の反抗的な鋭い目つきをした少女は、凛とした空気を纏った大人の女性に成長していた。彼女を助ける為に来たのに、反対に僕が励まされていることを恥ずかしく感じた。
「煙草、吸ってくる」
「どうぞ」と紫央が頷いたのを確認して外に出た。煙草に火を点けて、深呼吸と一緒に煙を吸い込んだ。川にたゆたう水の音を聞いていると、ピンと張った神経が緩んでいく。頭に上った血が下がっていき、乱れていた鼓動が落ち着いていくのが分かる。体中に絡みついていた淀んだ空気を河川敷に吹く風が剥ぎ取ってくれて、涼しい。僕の胸には明確に、一つの思いだけが残っていた。リクに会いたい。
 紫央が車から降りてきて、僕の隣に立った。今度は僕が紫央の問題を解決しようと思った。
「お母さんとは、うまくいってないの?」
「はい。母が、私のことをどう思っているのか分かりません」
「お母さんは、紫央のこと好きだと思うよ」
「そうであってほしいんですけど、そうじゃない気がします。男が出来る度に、娘さえいなければって思っているのが分かるし」
「お母さんも、誰かに愛されたいんだよ。紫央から愛されてないと思ってるから、愛してくれる男を探しちゃうのかもね」
「だとしたら、私はどうすればいいんですか?」
「紫央は、お母さんのこと好き?」
「はい、好きです」
「じゃあ、それを、分かってもらおう。好きだってことを伝えよう。言葉でも、行動でも。できる?」
「はい」と答えた紫央はまだ不安そうな顔をしていた。「そしたら思い出すんじゃないかな。紫央のことが好きだったんだということを。お母さん、今は、忘れてるだけだよ。そうじゃないと、紫央を一人で育てようなんて思わなかったはずだよ」
「忘れてるだけ」
「紫央だって、これまでに、お母さんに冷たく当たったり、反抗して酷いこと言ったりしたんだろ?」
「はい。中学の三年間は割とそんな感じでした」
「だったらお互い様だ。今は、互いの距離感が分からなくなってるだけさ。一度、すごく離れてしまったから、しょうがない」
「仲直りできるように、できることをやってみます」
「うん。紫央が十分に頑張って、それでも、お母さんが紫央を嫌うのなら、その時は諦めよう」
 煙草の火を足元の砂利で揉み消した。「はい」とさっきよりも芯のある返事をした紫央は水面に揺らいで映る月を真っ直ぐみていた。僕は夜空に浮かぶ月を眺めた。人が人に寄せる想いというのは合わせ鏡のようなものなのかもしれない。相手からの想いに満足できない時は、自分が相手に向ける愛情が足りてないのだろう。
「人のことは分かるのにな」と言った僕は鼻の頭を掻いた。紫央が笑みを零して「人には偉そうに助言できるんですけどね」と返した。

 自宅マンションの駐車場に到着した時には朝陽が昇っていた。紫央は後部座席で体を器用に折り畳んで眠っていた。三日ぶりの帰宅だった。リクが死んで事情聴取を終え、喪服を取りに帰ってきて以来だ。煙草を吸う僕がいなかったせいか、家の空気が澄んでいた。
 線香の匂いが染みついた喪服から私服に着替えた。この家で一番狭い部屋が僕の寝室だった。リクの部屋から持ってきた赤い封筒をデスクの上に置く。さっきコンビニで買った朝刊の中から怪文書に使えそうな大きめの文字を探す。指紋を残さないように軍手をして、目的の文字を探し当ててはハサミで切り取り、赤い封筒に貼っていった。継ぎ接ぎの文章が出来上がっていった。作業を進めている間、廊下から聞こえる僅かな物音にも敏感になった。消印のない手紙、を作っている姿を友美にみられたらと思うだけで指先が震えた。これまで友美に送られてきた、消印のない手紙、が僕の仕業だと勘違いされるのは避けたい。
 赤い封筒の表には「杉山様」と文字を並べて貼った。封筒の中には「愛してる」という怪文書を忍ばせた。
千秋を起こして作った朝食を食べさせた。目玉焼きとソーセージにパンを添えた簡単なメニューだが、千秋にとってこれが一番らしい。白米やみそ汁、シリアルなんかも試したことはあるけれど朝に限って千秋の口には合わなかった。食事が済んだ千秋を着替えさせて、友美の目覚ましをセットしてリビングのテーブルに置いた。僕と友美が勤務する私立の高校は土曜日でも午前中だけ授業を行う。友美は演劇部の顧問をしていることもあって土日に家を空けることも珍しくなかった。以前、公立の高校で働いていた僕は土日が休みだったので、娘の世話の心配はなかったが、友美と同じ学校で働き始めてからは土曜の午前中だけ託児所を利用するようになった。友美に置手紙を残した。
「友美へ。千秋は託児所に預けます。僕は、今日まで学校には休みを貰っています。リクの遺品整理をしてきます。それを夕方までに済ませて、千秋を迎えに行く予定です。お仕事頑張ってください。勇人より」
 自宅マンションから数分歩いたところにある託児所に「今日は夕方までお願いします」と千秋を預けて車に戻った。紫央はまだ寝息を立てていた。アタッシュケースに赤い封筒を隠した。布団代わりに後部座席にあったコートを紫央の体に掛けてあげた。
いっこうに起きそうにもない紫央をバックミラー越しに眺めていると瞼が重くなり眠気が襲ってきた。よく考えたら四日は真面に睡眠をとっていないのだ。段々と視界が曇っていく。首が横に垂れていくのと意識が遠のくを自覚しながら眠りに落ちた。
 眩しさで目を覚ました。肌寒く感じた車内も、少し汗ばんでしまうくらいの温度になっていた。窓を開ける為にエンジンキーを回すとダッシュボードの電子画面にAM10:00と映った。後部座席から「んー」と小さい声が聞こえた。振り返ると、紫央が目を擦りながら「おはようございます」と言った。
「おはよう」
「先生、これ、ありがとうございます」と言って、紫央がコートを渡してきた。「その辺に、置いてて」と頼むと紫央は膝の上で軽く畳んで、自分の隣にコートを置いた。
「寒いかなって思って掛けたけど、暑苦しかったでしょ、ごめんね」
「ううん、私、寒がりだから、これのおかげでよく眠れました」
「それ、死んだ父が、僕が教師になった時に、くれたんだ」
「ああ、だからか。先生の匂いと違う匂いもした、このコート」
「僕の臭い?」
「そう、先生の匂い」
「くさい?」
「くさい」
「え、ごめん」
「嘘、臭くないです。上木先生の匂いは、落ち着く」
「よかった、臭くなくて」
「家の箪笥の匂い、車の匂い、仕事場と、仕事で掻いた汗と、煙草の匂いが混じった男の匂い。お父さんも、同じ匂いがしたのかな。とか思います」
「娘は本能的に、父の臭いが嫌いになるらしいよ」
「え、お父さん臭いんだ、え、お父さんに会ったら、臭いのかあ、嫌だなあ」
「そうだよ、最悪だよ、娘に臭いとか思われるの」
「じゃあ、もし、お父さんに会っても、臭いって言わないようにする」
「そうしてー」
 ミラー越しに「うん」と目を合わせてくる紫央は、とても良い顔で笑っていた。父に会いたい、と願っている紫央が、母に会いたいという気持ちがあった頃の自分に重なってみえた。
「行こうか」
「え、どこに?」
「紫央の誕生日プレゼントを買いに」
「え、先生学校は?」
「先生、来週の月曜から出勤だから、今日は休みだ。紫央も今日は学校休むんだろ?」
「うん。制服、家に置いてきちゃったから。制服、取りに帰れば学校行けるけど」
「帰りたくないだろ? それにもう十時だ。今日は土曜だし、登校するにはもう手遅れだ」
「悪いなあ、先生」
「僕が悪者になってあげる。今日学校を休んでしまったのは、先生のせいにしていいよ」
 まだ半分夢の中にいるような、ふにゃふにゃとした口調の紫央が「行こう、先生」と言ったのを聞いて、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
誕生日プレゼントは決まっていた。携帯できる音楽再生機だ。二年前に壊してしまった紫央のウォークマンを未だ弁償できていなかった。
 大型の雑貨店に紫央と入った。海賊が集めた宝物のように商品が床から天井まで無造作に積み上げられて陳列されている店内は相変わらずだった。中には日本人より観光できている中国人の姿が目立つ。ここは七年前にリクを連れて電動の毛玉取り機を買いに来た。
「誕生日プレゼントってより、ただの弁償ですよね」と紫央が言って、お目当ての品を手に取った。
「まあ、前に紫央が使ってた物より、機能性は格段に上がってるだろうし、値段も遥かに高いと思うから許してよ」
「まあ、そうかもしれないけど、そういうところが何ていうか、先生って都合の良い男だよね」
 そう言って僕を一瞥する紫央のあまりに整った容姿に危うく見惚れてしまうところだった。少々たじろきながらサンプルとして飾られた商品に視線を移して尋ねる。
「どの色にするの?」
「紫」
「いいね、紫央の紫だ」
「紫陽花の紫」

 車に乗って直ぐ、紫央が「開けていい?」と無邪気に言った。「いいよ」と僕が答える前に、紫央はプレゼント用の包み紙を外していた。マトリョーシカのように箱の中から箱が出てきて、手の平より小さな本体が現れた。「ありがとう、先生」と言う紫央の屈託のない表情はまるで子供だった。ついでに買ってあげた、耳をすっぽり覆う高性能のヘッドフォンを接続した再生機を紫央は夢中で操作していた。
 わざと遠回りして車を走らせた。紫央の自宅があるアパートの数メートル手前に車を停めた。時刻は正午を過ぎていた。「まだいるみたい」紫央が車内からアパートの二階にある窓をみていた。その窓の向こう側で人影が動くのが分かった。
「ほんとだ。もう少し、ドライブする?」
「ううん、もうすぐ出て行くと思うから、ここで待っててもいいですか?」
「もちろん、いいよ」
 しばらく待っていると、若い男と中年の女性が腕を組んでアパートを出て行った。「あれ、お母さん」と言う紫央の声には寂しさが含まれていた。つんつんに髪を立てたホスト風の男に寄り添って歩く女性の後ろ姿は紫央にそっくりだった。紫央の母親と若い男が路地の奥に消えたのを見届けた。
「もっと良い男と付き合えばいいのに。あんなハリネズミみたいな奴のどこがいいんだろうね」
「たしかに、あれなら先生の方がよっぽど良い男だよ」
「それはない。あれと良い勝負だよ」
「え、あれよりは良い男だろ、僕の方が」と返したところで紫央が笑った。「じゃあ、私、帰ります。お世話になりました」と笑いを堪えるように紫央が言った。
「いいえ。紫央、がんばれよ」
「うん。先生も」
 目を合わせた紫央が僕と同時に頷いた。車を降りた紫央がアパートの入り口で手を振って、階段を上って行った。アタッシュケースに仕舞っていた赤い封筒を引っ張り出した。車を出てアパートの一階にある郵便受けの前に立つ。「202杉山」と表記されている郵便受けには、あらゆる広告チラシが溢れださんばかりに投入され、べー、と口から舌を垂らしてるような様相で数枚は外に飛び出ていた。そこに、赤い封筒を無理矢理ねじ込んだ。
 車に戻り、汗ばんだ手でハンドルを握った。震えた足でアクセルを踏み、逃げるように、そこから離れた。紫央の為とはいえ、自分がとても悪いことをしているような罪悪感を覚えた。リクはこれをどんな気持ちでやっていたのだろう。ただでさえ、外に出ることを異常に拒むリクが、こんなことをできるのか、俄には信じられない。
 消印のない手紙が一番最初に届いたのは、七年前。友美が一人暮らしをしていた家の住所をどうやって調べたのだろうか。友美の連絡先は僕しかしらなかったはずだ。次に届いたのは二年前だ。二年前のリクは裁判で判決が出たばかりで、それこそ頑なに外出することを避けた。あの風貌で出歩けば嫌でも目立つはずだ。僕たちが被害届を出して、警察が聴き込みをすれば自分が犯人として直ぐに浮き彫りになるということは覚悟の上でやっていたのか。それなりの変装をして、人通りの少ない夜中に実行していたのだろうか。消印のない手紙は郵便受けに直接投函しなければ成立しないのだから、僕や妻にばったり出くわす可能性だってある。そう考えだすと、ますますリクが犯人だということが腑に落ちない。
 渋滞で中々、実家には辿り着けなかった。灰色の雲が夕陽を遮り、薄暗い空模様になった。ドドボロン、と遠雷が聞こえたと思ったらフロントガラスに水滴が落ちてきて、瞬く間に滝のような雨が降ってきた。このままこの車がトイレペーパーみたいに排水路に吸い込まれて、いままでに起こったこと全てがなかったことになればいい。そんな想像は目の前で忙しく動くワイパーに搔き消された。

 実家の玄関に入るなり、濡れて足にへばりつきペショペショと鳴る靴下と、だぶだぶに水をふくんだズボンを剥ぎ取るように脱いだ。駐車場からマンションまでの僅かな距離で、ここまで水浸しになるほど、轟々と降る大粒の雨が地面を叩きつけていた。
着替えは弟のいる部屋にあるはずなのだ。もうあいつと顔を合わせるのを躊躇う必要はない。気難しい弟は死んだのだから。「リク、入るぞ」
扉を開けると、もちろんリクはいなかった。「世界がひっくり返るのを待っている」リクが最後に言っていた、この言葉の意味が今は少し理解できる。この理不尽な世の中で、そう思って生きている人間は多いのではないか。貧しい家庭の子供が裕福な家庭を羨む時、モテる奴はモテるのに、どうして自分はこうもモテないのか、とか、会社で尊敬してもない上司に説教されている最中や、大切な人が死んで天国から落っこちて戻ってこないかなと願ったり。弱い人間は傲慢な人間に振り回される現実に疲弊していて、弱い人間には逃げ場所なんてなくて、それを耐えなければ生きてはいけないと社会生活を強いられる。リクのような引き籠りや、道端で眠る浮浪者は、いくら願っても、世界がひっくり返らない、ということを悟った人間たちなのかもしれない。
段ボールに溜められた人形の一つを掴み上げる。手に取ったのは今現在、テレビで放送されている仮面ライダーの人形だ。ふと疑問に思い、段ボールをひっくり返す。携帯で、歴代の仮面ライダー、と検索を掛ける。床に散らばった人形たちとネットの画像を照らし合わせていく。古いライダーから、ここ数年で様変わりした現代風のポップなライダーまで、弟は歴代全てのライダーを揃え持っていた。加えて、それに付随した敵役の怪人も揃っているようだ。僕の記憶が正しければ、リクが人形を収集してたのは三歳くらいから中学を卒業するまでの間だ。それ以降のものをどうして持っているのだろうか。
 この人形たちが鎧兵のように飾られていた棚に目を移す。そこに人形はひとつも残っていなかったが、リクが子供の頃に使っていた左利き用のグローブが置いてあった。
 グローブには硬式のボールが入っていた。見覚えのある、そのボールを抜き取った。泥の色が染み込んで、赤い糸が切れて縮れていた。これは、進藤とリクがキャッチボールする時に使っていたボールだ。リクが最後、わざと遠くの藪の中に投げ入れたボールだった。
 このボールは、あの日、藪の中から探し出した進藤が持ち帰ったはずだ。あれ以来、進藤とリクが顔を合わせることはなかった。僕の知っている限りでは、そうだ。だけど、このボールをリクが持っているということは、進藤はリクとキャッチボールをしたということなのだろうか。使い古されたボロボロのボールの皮に「心」と文字が彫られていた。 
あの二人は、心の渡し合い、を続けていた。僕の知らないところで。
この部屋の増え続けていた人形は玩具メーカーに勤めている進藤がリクに贈っていたのかもしれない。
今の今まで考えもつかなかった、極めて真実に近い事実に、脳天から足先までが雪崩のように脱力していった。握っていたボールが指から滑り落ちて、床に転がった。それを目で追うと、椅子に座って机に向かうリクの足元で止まった。
リクが、消印のない手紙、を作っている。
僕の頭の中で、仮想の光景が広がっていく。リクの背後に歩み寄って来た進藤が赤い封筒を受け取り部屋を出て行く。
 そうだったのか。最初から進藤が関わっていたとすれば辻褄が合うのかもしれない。友美の勤務先に張り込んで、後を着ければ住んでいるところも分かる。実際、友美は後を着けられているような気がすると言っていた。二年前に再び、消印のない手紙、を届けたのも進藤だろう。
 進藤なら目立つことなく手紙を郵便受けに投函することも容易だ。たとえばったり僕や友美に出くわしても「遊びに来た」で罷り通る。車を隠れ蓑にして、頃合いを見計らい何食わぬ顔で赤い封筒を郵便受けに投入する進藤の姿が目に浮かぶ。
 腹の傷が疼いて痒みを感じた。お腹を縦に走った手術痕を指で擦った。この手術をした日も今日のような土砂降りの雨だった。あの時に感じた違和感が蘇った。あの日の朝、確かに僕はリクのパソコンに、助けてくれ、とメールを送った。しかし、僕が住んでいたアパートの住所をリクに教えたことはなかったのだ。父に訊いた訳ではないだろう。父は病院で、リクとは何年も会話をしていない、と嘆いていたから。だとすれば、僕が住んでいる場所を知っていたのは進藤しかいない。進藤がリクを連れて来た可能性も大いにある。リクに背負われてアパートの階段を下りきったところで、黒い傘を差した男性とすれ違ったような曖昧な記憶が残っている。意識が朦朧としていたし、おぼろげで信憑性に欠けるが、あれは進藤だったのかもしれない。
 リクのパソコンの電源を入れて、メールフォルダを開く。死ぬ前に整理したのか、フォルダは空になっていて、受信送信の履歴も削除されていた。新規のメールを立ち上げて、宛先の欄に「進藤」と打ってみた。自動検索されて進藤のアドレスが現れた。これで分かったことは、進藤が密かに自分のアドレスをリクに伝えていたということだ。証拠は隠滅されているが、二人はメールで何らかのやりとりをしていたのは間違いないだろう。さらにそれを僕には内緒にしていた。
「今、どこにいる?」こう本文に書いて、送信ボタンを押した。
 死んだ人間からメールが届いたら、驚くだろう。進藤は返信するだろうか。しばらく、メールの反応を待つことにした。
 リクの部屋のクローゼットを覗くと、上下新品のスウェットが袋から出されぬまま仕舞ってあった。昔、リクに買ってあげたが、使われることはなかったらしい。それを着ることにした。
 パソコンの画面にメールの受信を報告するポップアップが表示された。送ってきたのは「進藤」だった。
「勇人か? 俺は今、ママの店で飲んでるぜ」まさか、こんなに早く応答があるとは思っていなかった。進藤の文面からは焦りより、余裕すらも伺えた。リクが死んだ後に、僕がここまで辿り着くことを進藤は念頭に置いてたのだろう。きっと、消印のない手紙のことを問い質しても、既に出来上がっている逃げ口上を進藤は述べるだけだ。だけど、どうしても進藤に聞いておきたいことが一つあった。あのことに関しても進藤が関わっているかもしれない。
「いまから向かう。そこで、待っててくれ。勇人」

 千秋を託児所に迎えに行った。「パパ、遅いよ。何してたの?」と口を尖らせる千秋を自宅に連れて帰ったのは、十九時過ぎだった。少し遅れて帰宅した友美に「ごめん、進藤に会てくる」と告げて直ぐに家を飛び出した。
 雑居ビルの一室、天野が経営する店のカウンターに進藤は座っていた。ママに扮した天野が「いらっしゃい」と僕に歩み寄って来た。ママは僕の背中に手を回して「大変だったね。ゆっくりしてって」と言って進藤の隣の席に案内してくれた。
「ウーロン茶を」
「あら、車で来たんだね」と少し残念そうな声を出したママはカウンターの中に入っていった。進藤は予想通り何食わぬ顔で僕に「お疲れ様」と言った。親友に隠し事をしていたとは思えない、その飄々とした態度に納得できず「お疲れ」と素っ気なく返して、腰位置の高い椅子に浅く座った。どう話を切り出そうかと躊躇っていると進藤が先に口を開いた。
「火葬、最後までいてやれなくて、悪かったな」
「謝ることは、他にもあるだろ」
「何、怒ってるんだよ」
「お前、リクと連絡を取り合っていたのか?」
「連絡? メールなら昔な」
「昔?」
「昔、あいつにバイトを紹介しただろ。工場の。その時は、あいつのパソコンにメール送ってたよ、あいつ携帯持ってないからさ、メールだけでやりとりするの大変だったなあ、懐かしいぜ」
「工場。ああ……そんなこともあったな」
 すっかり忘れていた。進藤に紹介された工場でリクが働いていたんだった。その時に連絡先を交換するのは当然か。
「それが、どうしたんだよ?」
「リクのアドレス帳に、進藤ってあったから」
「そりゃあるだろ。あいつとの通信手段は、パソコンしかないんだから」
 一挙に進藤のペースに持ち込まれたのか、僕だけが但に興奮していて冷静な思考を出来ていなかっただけか、本来の目的すらも忘れてしまいそうになった。注文していたウーロン茶が届いて「献杯」と渋い表情を作った進藤がグラスを掲げてきた。グラスを合わせ「献杯」と返して、乾いた喉を潤した。
 煙草に火を点けて、深呼吸の要領で、一口吸って、煙を吐いた。
「なあ、進藤。これ、分かるか?」赤い封筒をカウンターに置いた。煙に巻かれるかもしれないが、進藤の反応を確認したかった。「なんか、取り調べみたいだな」と言った進藤が、赤い封筒を摘み上げ、まじまじと眺めた。
「これが、どうしたんだよ。俺には、これが、何なのか分からないぜ」
「消印のない手紙」
「なんだよ、それ。聞いたこともないよ、そんなの」
 そう言って進藤は、赤い封筒をカウンターの上に戻した。進藤が芝居をしているのか、本当に心当たりがないのか、見た目では判断できなかった。
「この赤い封筒、消印がない状態で、中には新聞の切り抜きが貼られた怪文書が入れられてて、そういう手紙が友美宛てに送られてきたんだよ。今までに二度も」
「え、なんか、怖いな、それ」
「その消印のない手紙を作っていたのは、リクだったんだ」
「え、どういうこと?」
「それをお前が手伝ってたんじゃないかと思って」
「いやいや、そんなことした覚えないし、え、なんでリクは、そんな手紙を友美ちゃんに送るわけ?」
「まあ、リクが何故、そんなことをしたのか、理由は僕にも分からない。リクを問い質すこともできないから、いくら考えても憶測の域は抜けないよ」
「それは、本当にリクがやってたのか?」
「ああ、かなり高い確率で」
「あの、頑固な引き籠りが?」
「そう。だから実行犯は進藤じゃないかって」
「なるほどね。完全にリクを犯人として仕立て上げられないから、次は俺が真犯人として浮上したわけだ。勇人刑事」
「違ったなら、ごめん」
「謝るくらいなら、疑うなよ。俺は、何も知らないよ。それより、怖いな、消印のない手紙」
「リクが死んだから、もう届かないと思うけど」
「友美ちゃんが心配だよ。その怪文書って、どんな内容なの?」
「会いたい。とか、愛してる、とか、そんな感じ」
「こえー。もしも、また、その手紙が届いたら、リクが犯人じゃないってことか」
「いや、これはもうリクがやってたんだと思う」
「警察には相談したのか?」
「してない」
「だったら、素人のお前が断言しちゃいけないだろ。俺まで共犯者にして疑ってさ」
「進藤は関係なさそうだな。疑ってごめん」
「犯人捜しって面白いけどさ、みんなそういうことしたがるけどさ、無理に誰かを悪者にしなくてもいいと思うぜ、俺は」
「面白くてやってた訳じゃなくて、本当に同じものがリクの部屋にあったんだ」
「あいつは、いつも、悪者にされるんだよな。誰かの都合で、いつも」
 進藤が万札をママに差し出して「お釣りは、勇人の分に回して」と言って立ち上がった。「じゃあ、お先に」と出口に向かう進藤を呼び止めた。
「進藤。あのさ、まだ、訊きたいことがある」
「まだ、あるのかよ。ていうか、まだ、何か疑ってることあるの? 俺はお前に一つも隠し事はないつもりだぜ」
「一応、訊いておきたくて」
「何だよ」
「父さんが死んだ時、お前も一緒にいたの?」
「は?」
「進藤が運転してあげたんじゃないのかって」
「俺は何もしてない」
「そうか、ごめん。免許を持ってないリクが千葉まで運転できるのかなって。警察の調べでは、リクが運転したことになってるんだけど、進藤ならリクに協力しててもおかしくないなって。進藤、運転出来るし」
「運転できる奴は、俺じゃなくても他にいっぱいいるだろ。色々と腑に落ちないことがあるのも分かるけどさ、もう、そういう新犯人捜しは警察に任せて、お前がするな」
「違うんだ。それは真犯人を探したいとかじゃなくて。千葉の特にこれといって何もない路上脇に車を停めて、リクは自分で警察を呼んだんだ。その時には、父さんは死んでいたらしい。取り調べでリクは、車を走らせている最中に父は死んでいたと供述しているんだけど、本当は父さんの最後を看取った場所が、あると思うんだよ。リクが父さんを連れて行ったところが、どこなのかを知りたいんだ。進藤をリクの共犯者にしたいんじゃなくて、もし、知っていたら教えてほしい」
 呆れた顔で聞いていた進藤が溜息を漏らして、僕を見据えた。「どこへ行ったかなんて、俺が知る訳ないだろ。家族のお前が見当もつかないなら、尚更だろ。ただ、調べる方法はあるぜ」
「え、どんな方法だよ」
「カーナビの履歴を見てみろよ。お前の身に覚えのない住所が、リクが親父さんを天国に見送った場所じゃないか」
 そう言い残して進藤は去った。「私たち二人だけになっちゃったわね」店には僕とママだけが残っていた。
「僕のこと嫌いになっただろうな」
「進藤さんは、上木先生のこと嫌いになったりしないわよ」
「いや、これだけ、根も葉もないこと疑われたら、嫌になりますよ」
「進藤さん、ここに来た時は、いつも上木先生の話をするの。あの人は、あなたが何をしても、あなたの味方だよ、きっと」
二杯目のウーロン茶を出したママが「良い友達を持ったね」と言った。
「はい。それなのに進藤が何か隠してるんじゃないかと疑ってしまいました」
「まあ、そうね、進藤さん、善い人なのか、悪い人なのか分からない時、あるもんね」
「そうですね。でも、たぶん、あいつは、どっちでもない人間なんでしょうね」
「こっちの見方次第ってことかしら」
「そういう感じです。だけど、弟でも進藤でもないとしたら、この手紙を僕の妻に送り付けてくる奴は誰なんでしょうね」
「上木先生の自作自演だったりして」
「そんな訳ないでしょ」
「この、消印のない手紙、今日の夕方、紫央の家の郵便受けにも届いたんですって。さっき、紫央から連絡があったの」
「紫央にも?」
「やっぱり、上木先生の仕業としか考えられない」
「いやいやいや、違いますって」
「とにかく、今日は紫央、休ませたの。奥さんだって気付いてるんじゃない? 夫が自作自演していること」
「だから、僕は犯人じゃないですって」
「上木先生の周りに二人もいるんだもの、消印のない手紙、が送られてきた人が」
「勘弁してくださいよ。証拠もないのに人を疑うの」
「ね、嫌でしょ、だったら弟とか進藤さんを疑うのはおしまいにしないとね」
 カウンターに両肘を着いたママが、僕を真っ直ぐ見据えていた。「うん、犯人捜しは、もうしない」と返した僕に向かって、直ぐにママは「そうしよう」と言った。
 確信に近づいていたつもりだが不明瞭で漠然としたものに戻った。友美に送られてきた、消印のない手紙、の送り主がリクでも進藤でもなければ、一体誰の仕業なのか。何の目的があるのか。友美に好意を寄せるストーカーがいるのかもしれない。深部のしこりが取り除けずに収まりの悪さを感じているが、これ以上の詮索は警察に任せることにしよう。
「お客様も他にいないし、私から弟さんに一曲捧げていいかしら」
「それは、贅沢ですね。お願いします」
 ステージに立ったママが、僕に優しく微笑んだ。耳馴染みのあるピアノの前奏が流れた。多分にママのアレンジが加わっているが、ショパンの「別れの曲」を編曲したものだと分かった。とても静かに歌い出したママの声が、たおやかに届いてきて僕に沁み込んでいく。まるで麻酔を打たれたように、強張っていた神経が緩み、潜伏していた悪玉のしこりが溶けてなくなっていった。
 
 リビングの食卓にラップが掛けられたガラスの器があった。中身はポテトサラダだ。部屋の隅にある作業用スペースから友美が出てきた。大きな眼鏡を外しながら「それ、食べて」と友美が言った。
「ありがとう。久しぶりだね、友美の作るポテトサラダ」
「あなたが昔、私の作るポテトサラダが好きだって言ってたこと思い出したの」と友美が少し恥ずかしそうに言った。ラップを取って、用意されていた箸で一口頬張った。
「美味しい。これ、これ好きなんだよ、僕」
「良かった。ちゃんと座って食べて」
「うん」と答えて椅子に座った僕に友美が穏やかに訊いてくる。「ごはん、いる?」
同棲を始めた頃の初々しい会話をしているような、この懐かしい感覚が嬉しかった。「うん」
 キッチンに向かう友美を目で追った。男の視線に無関心の外連味のない容貌と、生来の器量の良さを兼ね備えた彼女は、あの図書館で出会った初恋の女の子、そのままだった。いずれにせよ、平凡な僕には不釣り合いの美しい女性だった。
「ポテトサラダ、これからも作ってよ」
「分かった。相変わらず、お口に合って良かった」

 この夜、僕は夢をみた。登場人物は若い父と、幼い弟と、僕の三人だけだった。
 三人で和気藹々と食卓を囲んでいるシーン。父は笑いながら僕の歯止めがきかないお喋りに相槌を打ちながら、リクにご飯を食べさせていた。
 三人で川の字になって布団に転がっているシーン。リクはべったり父に抱きついて眠っている。僕の手はしっかり父に握られていて、とても温かかった。
 三人でキャッチボールをしているシーン。父からリク、リクから僕、僕から父へとボールが渡っていく。「ナイスキャッチ」「ナイススロー」互いに声を掛け合う三人の笑顔が絶えることはなかった。
 これが思い出なのか、僕が作り上げた過誤記憶なのか分からないが、嫌なシーンがひとつもない夢だった。

 弟の四十九日を終えるまで休日は遺品整理と、マンションを売りに出す為の手続きに追われた。梅雨を抜けて六月の中間テストの採点を終えて、やっと一段落着いたといった感じだった。友美は相変わらず演劇部の顧問で忙しい毎日を過ごしていたが、僕だけでも娘との時間を取れるようになって良かった。
 テスト結果を参考に生徒たちとの最終進路相談が始まり、紫央の番となった。進学を希望していない生徒は、生徒指導担当の僕が相談を受けることになっている。普段は使用されていない空き教室の中央に机一つと椅子二つを用意して、紫央と向かい合って座った。手元にあるファイルで紫央の成績を確認すると、英語だけが如実に良くなってきていることが分かった。
「留学したいって気持ちは変わってない?」
「はい。母も許してくれました」
「留学費用を出してくれるってことか?」
「それは自分で払います。なので、卒業して一年間はバイトしてお金を貯めます」
「ママの所で」
「ママのところと昼も働きます」
「一応、奨学金とか、支援を受ける方法もあるけど」
「いえ、自分で稼いだお金で行きます」と答えた紫央の意思の強い眼差しを受けて僕は頷いた後、「そう言うと思った」と返した。
「紫央、あれから、お母さんとはどうだ、上手くいってるの?」
「はい」と言った紫央が一瞬、次の言葉を躊躇う表情をして、ゆっくり口を開いた。「あの後、家の郵便受けに私宛の、消印のない手紙、が届いたんです」
「え、何それ」その送り主は僕の仕業だが、驚いてみせた。
「手紙には、会いたい、って書かれてて、すごく怖くて、お母さんに相談したんです。それを期に母と会話ができるようになって」
「その、消印のない手紙、が切っ掛けで」
「はい。お母さん、家にいてくれることも多くなって。警察に行こうって言ったり、心配してくれて」
「それは、いいのか、悪いのか、だな。でも、お母さんとの仲が良くなって良かった。警察に相談した方がいいかもな」
「しません」
「え、した方がいいよ。自分たちだけでは解決できない問題だよ」
「犯人が誰か検討がついてるので」と言った紫央は微動だにせず、僕を真っ直ぐ見ていた。僕は口の中に溜まった唾を呑み込んだ。
「誰?」
「消印のない手紙の、送り主は先生ですよね?」
「僕? そんなこと、どうして紫央にする必要があるんだよ。言っとくけど、紫央に恋愛感情とか、全くもってないぞ」
「お母さんとの仲を修復する為の、切っ掛けを作ってくれたんですよね、上木先生が」
「ちょっと言って意味が分からないな」と言った僕は明らかに苦笑いを浮かべているだろうことは、自分でも分かった。紫央が膝の上に置いていた学生カバンを開き、赤い封筒を二枚取り出した。
「これが、その手紙です」
「それが、そうなのか。そんなのがいきなり届いたら怖いよな」
「どうして二枚あるかは、聞かないんですね」
「二枚、届いたのか?」
「二回届いたんです。一回目は二年前。二回目は先月です」
「二年前って、紫央が高一の時ってことか?」
「とぼけないで下さいよ。先生でしょ、消印のない手紙、を送ったの」
「本当に、僕じゃないよ。二年前に届いた時は、誰にも相談しなかったのか?」
「その時も、先生じゃないかなって思ったんですけど、違うかもしれないし、誰にも相談できる人いなかったし、警察に相談しても相手されないと思ったし、でも、先生の車で寝ちゃった時、先生が掛けてくれたコートを見て確信したんです」
「コート?」
「紺色のコート。一回目の消印のない手紙が届けられた夜、先生によく似た男の人がマンションから出て行くのを見たんです。その男は紺色のコートを着ていました」
「そんな紺色のコートなんて色んな人が着てるよ」
「そう言うと思いました。ま、先生が送り主じゃなくても、母と上手くいってるのは相談に乗ってくれた先生のおかげです、ありがとうございます」
 立ち上がった紫央が深々と頭を下げた。僕はファイルを閉じて、机に置いた。前屈みになって紫央の手首を掴んで引き寄せた。二年前に痛々しく腫れていたリストカットの痕は、すっかり白い線になって色白の肌と同化していた。
「まだ死にたいと思うことはある?」
「ありません。これからも会いたいと思える人たちがいるので。先生も、そのうちの一人です」
 その時、扉が勢いよく開いて「私は?」と森蒼が興奮気味の声を上げて教室の中に飛び込んできた。「蒼も」と言って紫央が優しく蒼の頭を撫でた。
「蒼、良かったな」
「やっぱり、上木先生が紫央のストーカーだったの?」
「おい、何だそれ、ストーカーな訳ないだろ」
「紫央じゃなくて、私をストーカーすればいいのに」
「どういうことだよ、訳が分からない」
「だから、女は紫央が好き。男は先生が好きなの。私は」
 それを聞いていた紫央が「ストーカーは先生じゃなかった。帰ろう、蒼」と蒼の手を握って廊下に向かった。「先生、バイバイ。また明日ね」と手を振る蒼に「また明日」と返した。廊下に出て一度姿を消した紫央が走って戻って来た。
「今度、お父さんに会いに行こうと思うんです。先生、着いてきてくれませんか?」
「いいよ。僕でいいなら」
「ありがとう」と言った紫央の表情は子供みたいにあどけなかった。再び、教室から出て行った紫央と蒼が楽し気にはしゃぐ声と、廊下を走る音が響いてきた。こういう時、大人は「廊下は走るなよ」とわざわざ言わない。

 翌月の朝、目的地を定めて車を走らせた。カーナビを隈なく調べると、家族とも個人的にも行った覚えのない住所が履歴に残っていた。結局、学校が夏休みに入るまでカーナビの履歴を探る旅は出来なかった。
後部座席には友美と千秋を乗せている。身動きが取れなくて窮屈だ、と助手席を嫌う友美は、娘との会話を楽しんでいた。二人には、秘密の場所にお出掛けだ、と告げた。行く先に何もなかったら、千葉の海にでも寄って帰れば、夏休みの家族で過ごす時間としては、喜んでもらえるだろうと思った。
リクは瀕死の父を、どんな気持ちで、これから向かう場所に運んだのだろうか。リクを連れて初めて父の病院を訪れた時のことを思い出していた。
 抗癌剤の副作用に耐え切れず、「殺してくれ」と悶える父を目の当たりにしたリクの行動を忘れられない。リクはベッドの上に飛び乗り、父の体を跨ぐ体勢になった。そして、父の首を両手で絞めたのだ。僕は慌ててリクを父から剥ぎ取った。
「やめろ、何してんだよ」
「父さんの願いを叶えてあげたい」
「ふざけんな。一度も見舞いに来なかった奴が勝手なことするな。これまで父さんが、どれだけ病気と闘ってきたか知らないだろ、お前は」
「勝手なのは兄貴の正義感だろ。こんなに苦しんでるのに、まだ病気と闘わせるの?」
 父の叫び声がパタリと止まった。それに反応するリクに「気絶したんだよ」と教えてナースコールを押した。
「父さんは、こうやって一日の殆どを意識もなく寝て過ごすんだよ。苦しむのは副作用が現れる、僅かな時間だ。ずっと今みたいに唸ってるんじゃないんだよ」
「だとしたら、意識がある時は、地獄を味わってるってことだよね?」
「まあ、そうだけど。仕方ないだろ、父さんの為だ」
「この治療を続けて助かるの?」
「そう信じて続けるしかないだろ」
「望みは薄いってことだね」と言ったリクの顔は無表情だった。駆けつけたナースの処置が終わるまで、リクは呆然と父を眺めていた。
「さっきは、兄貴のこと悪く言って、ごめん」ぼそりとした声が聞こえて、立ち尽くしていたリクに目をやった。リクは無表情のまま、涙ぐんだ瞳で僕を見ていた。その時、意識を失っていたはずの父が微かに声を漏らした。
「私のことで、すまんな。二人に迷惑をかけて」
 ベッドの脇に歩み寄ったリクが視界に入ると、父は口角を上げて笑顔を作った。「リク、会いに来てくれてありがとう」
「父さん、俺にできることある?」
「会いに来てくれただけで十分だよ」父は息を精一杯に吐き出すように喋っていた。「俺は何かできることないの?」と返すリクに苛立った。僕は強い口調で、こう言った。
「お前が引き籠らずに、ちゃんと働いて一人で生きていけるようになることを父さんはずっと願ってるよ。お前に出来ることがあるとすれば、まずはそこからじゃないのか。いつまでも、父さんに甘えてるお前が、一丁前のこと言ってんじゃねえよ」
 それを聞いたリクは、何も言い返さずに俯いて拳を握っていた。「リクと向日葵がみたい」と父が漏らした。父は淀んだ空気を和ませたかったのかもしれない。「次、リクが来るときに買ってきてくれないか、向日葵」
 リクは顔を上げて「分かった」と頷いた。
 この一週間後、死ぬ前に見せたいものがあると言って父を病院から連れ出した。そこまで思い出して、リクと父が言った場所の予想がついた。
 向日葵を見せに行ったのか、あいつは。もしかしたら、リクは父を殺す気なんかなくて、向日葵を見せたら、病院に連れて帰るつもりだったのかもしれない。だけど、あの状態で外に連れ出せば無事に帰ってくることはないと僕は分かっていた。父を殺したのは僕かもしれない。あれ以上、痛々しい父を見ていられなかった。だから、「一日だけ、車を貸してくれ」というリクの懇願を受け入れたんだ。僕は父を苦しめて苦しめて生かすことしかできなかったから。大好きだったリクに殺されるなら、父も本望だろうと、自分の中で正当化した。
 眠って意識のない父を背負い、車に運んだのは僕だ。立派な共犯だ。なのに、罪はリクだけが償った。
 路上に停車させた車の後部座席で、リクは死んだ父を強く抱きしめていたらしい。そんなアイツが父の死を望む訳がない。この世で父が死んで一番悲しむのはリクだ。リクは「世の中には悪者が必要だ。だから悪者は僕が引き受ける」と断るごとに言っていた。だけどリクは、悪者から最も遠い純真無垢な人間だった。たぶん、あいつは僕の内心に気付いていたんだ。できることなら父を楽にしてあげたいという想いがあることも、父の看病が体力的にも金銭的にも煩わしくなっていたことも。リクは、これまで通り、僕の代わりに自分を捨てて悪者になったんだ。
 バックミラーで居眠りしている友美と千秋の様子を覗く。友美の膝の上で気持ちよさそうに千秋が横になっている。この二人から幸せな日常を奪うことはしたくない。今更、僕が「共犯なんです」と出頭しても、証拠不十分で不起訴になるだろう。そんなことをすれば、悪者を引き受けてくれたリクの行為が無駄になる。僕が共犯である事実は、墓まで持っていこう。
 僕だけが、僕が悪者だということを知っていればいい。僕は姑息で卑怯で汚い人間かもしれないけれど、みんな誰かに悪者を押し付けて、平穏な暮らしを手に入れてるんじゃないのか。僕だって時には誰かの悪者になって、誰かのバランスを保っている。一生懸命に生きているのに、どうしてもこんなに生き辛い世の中だから、みんな、誰かを敵にして、気を紛らわせないとやってられないんだ。 
 世界がひっくりがえりでもしなければ、その現実は変わらない。
 もし、僕が悪者になることで、誰かの何かが救われるのなら、その時は僕が悪者を引き受けるよ。だから、父の死の真相に関しては見逃してほしい。
誰かが悪者を引き受けることで、この世界は回ってるんだ。リクが全てを背負って天国に行ってくれたんだ。そう自分に言い聞かせながら車を走らせた。
高速道路を出て、一般道に入ったところで先に友美が目を覚ました。「ついた?」と友美が訊いてくる。「もうすぐだよ」と返してから直ぐに言葉を続けた。「そこにある紺色のコートのさ、ポケットの中を見てみて」言われるがまま、ポケットの中に手を突っ込んだ友美が一枚のカードを取り出した。
「あ、これ」
「図書室利用証」
「これ、どうして勇人が持ってるの?」
「友美、それをバス停に落として帰ったんだよ。教育実習で再会した日に」
「なくしちゃったの、あの学校の図書室利用証。なくしたって言えなくて、あの学校で本を借りれなかったんだからね、どうして教えてくれなかったの」
「だって今、拾ったこと思い出したんだもん」
「まあ、落とした私が悪いけど」
「そうだよ、裏に住所とか書いてあるから、拾ったのが僕じゃなくて、変な奴だったら、悪いことに使われたかもしれないよ」
「ほんとそうだよね」
「律儀に住所まで、しっかり書くなんて友美らしいよね」
「そっか、もしかしたら、手紙を送ってくる人が拾ったのかなって思ってた。あの実習が終わってから直ぐに、消印のない手紙、が届いたから。勇人が拾ってくれてたのなら、関係ないね」
「うん。手紙の犯人捜しは、警察に任せよう」
「そうする」
 
 目的の場所に到着しました、とカーナビが報告の音声を出した。山道の脇道に入って行くと、忽然と狭い敷地の駐車場が現れた。友美と千秋を起こして外に出た。腰の高さまで伸びた草原の真ん中に細い道が出来ていて、その先に小高い丘が見えた。
「パパ、ここ、どこ?」
「行こう。行けば分かるよ」と言って千秋を抱き上げた。友美は黙って僕の後ろを着いてきている。草原を抜けて、丘を登っていくと「わー」と千秋が声を弾ませた。頂上に立って横に並んだ友美も思わず「すごい」と溢していた。

 向日葵だ。なだらかな丘の斜面に、うっそうと鮮やかな黄色の花が咲いていた。向日葵はまるで空を映す鏡みたいに、僕の背中にある太陽を反射させて、まばゆく光っていた。
「きれいだなあ」
 僕にも花を見て、綺麗だなあと思える日が来るなんて夢にも思ってなかった。ここでリクは、父に向日葵を見せてあげたんだな。ここは、まるで天国みたいな場所だった。
地面にあるのが太陽で、空にあるのが向日葵か。世界が、ひっくり返ってみえた。


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