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心の声を聞く

心が訴えていることに耳を傾けていきたい

だけど、心の声に従うことができないのが生きる難しさなのかもしれない

「これをやりたい」と心の声が言っている、それを実行する、それは今までやれてこれたかもしれない。根っからの飽き性の僕は、やってみて続かないことの方が多いけど、やりたい!と思ったことには迅速に行動しているかもしれない。

試したがり屋。そう言ってしまえばいい。なんでも試したがる。その分野の深いところにいる人たちからは煙たがられたり、浅はかさが露呈した時には批判される。それはしょうがないことだ。僕がやっていることは僕が試したことの聖域にいる人たちにとっては冒涜に近いような行為なのかもしれないのだから。

だけど、人生は一度しかない。試してみたいことを試さずに死んでいくのは勿体無い。誰だって最初からその分野のプロフェッショナルになれる訳が無い。こっちにくるなという圧力と批判と、自分には無理かもしれないという不安を乗り越えて、時間を使い知識と技術を磨いていくしかない。

それに耐えられることだと判断したら続ける。続けることは絞る。全て手広くやれるほど人生は長くないと思っている。だけど試したいことが見つかれば臆することなく試す。死ぬまで好奇心を持って、できる限り多くのことやものに触れていきたい。一つのことを死ぬまで追求していく崇高な生き方は僕にはできない。

「何でも屋」くらいが僕には合っている。

僕が難しいと思うことは心の声が「これはもうやりたくない」と言ってることを実行することだ。やっていることを手放す、捨てることは難しい。さっき言った試して間もないことであれば手放すことは簡単だ。難しいのはやっていることに収入がある程度あったり、期待されていたり、それに他の人を巻き込んでしまっていることは、どうしてもやめにくい。

もしかしたら自意識過剰なだけで、自分がやめても困る人はいない、というのが大体の真実だ。代わりはいくらでもいる。僕がやっていることは他の人でもやれる。それが真実なのだけど、離れる瞬間の不義理という感情を味わいたくないだけで、続けていることもあった。これは逆に失礼なことだとも分かっていた。こういう感覚って僕だけじゃない気がする。僕以外にもこの感覚が分かる人って沢山いるような気がする。

結局、自分だけのことを考えているのならやめた方がいい、って気付いた。

だから、やめたいと思ったことは一瞬、誰かに不義理をするかもしれないけれど、モチベーションがない自分が続けるより、きっぱり辞めた方が健康的なのだ。

一番難しいのはきっと収入があることを手放す場合。生活がある。例えば、僕が演出という仕事をやめたいと思った時、それは中々やめられないだろう。例えばの話で、演出をやめたいと思っている訳ではない。これには収入がついてきているので、やめた瞬間、今の生活が崩壊するかもしれないという恐怖があるだろう。

僕の仕事は、作家、演出、講師が主だ。その他にカメラや絵やデザインや舞台のプロデュースといったポンっと収入になる時があることもやっているけど、作家、演出、講師、という三つが仕事と呼べるものだろう。

数年前、一つの方法を実践して、心の潤いを保つことができることに気づいた。スパッとやめるのではなく少しずつ量と時間を減らしていく方法だった。そして、最後には手放す。もしくは自分より出来る人に引き継ぐ。

そうやって残ったのが今やっている作家、演出、講師。の三つの仕事。

作家に一番時間を使いたいから、演出と講師の仕事は勇気を出して断る、ということもして、心の声にできる限り耳を傾けようとしている。できない時も沢山あるけど。もっと言えば、この三つを全部、趣味にして創作することが一番健康的なのかもなあ、とも最近は考えている。本を書くこと演出すること教えること、好きなことだけど、お金に結びついているとやっぱり時々、好きなことも嫌いになりそうな時があるから。まあ、それでも好きだからこの三つは続けられている、と言えばそうだけど、考え始めると難しいので、これも試そうと思う。

心の声を聞いて生きていくことが、本当に大事だと思う。難しいけれど。

もし、やりたくないことをやっていて、心が苦しんでいるなら、少しずつ量と時間を減らして、やりたいことを少しずつ収入にしていく、そんな方法で心の健康を取り戻すのはどうでしょうか。とか人に言ってるようで、改めて自分にも言い聞かせている記事でした。

最後まで読んでくれてありがとうございます。


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