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葬式のあとに飲みにいくな

先日、大学の時の恩師が亡くなった。お葬式に向けて色々な繋がりを伝って昔の仲間が集まり、できたLINEグループの人数は大変なものになった。恩師の人柄を感じ、不謹慎かもしれないが最期に皆をつなげてくれた故人に感謝した。またLINEで気軽に集まれることやお香典をまとめる作業もネット上で完遂でき、時代の進歩を感じた。一昔前ならこうはいかなかったはずだ。
さてお通夜当日、私の乗った電車は人身事故に巻き込まれ、予定より30分程度遅刻してしまった。会場に到着した際には知っている顔はなく、恩師の家族や親戚らしき人しかいないような状況であった。
「故人のお顔を見てあげてください」
会場スタッフに促され、お焼香のあとに恩師のお顔を拝見した。最後にお会いしたのは15年くらい前であろうか。恰幅の良かった当時の姿は見る影もなく、闘病されていたのか痩せて小さくなられていた。その時、私自身は自分が亡くなった後の顔を他の人に見られたくないなと思った。私の見栄っ張りな性格のせいもあるが、なんとなく弱ってしまった自分の姿を他人に見せるのは恥ずかしいと感じてしまったのだ。そして、なんとも言えない感情を抱きながら会場を出た時に同級生から電話があった。
「いま先輩と後輩と飲んでるから来ないか?」
私は瞬時に無理だと言って、すぐに帰宅した。
時間的には電車の時間もあり、一杯くらい飲みにいくこともできた。しかしどうしても行く気になれなかったのだ。小さく変わってしまった恩師の姿を見て、酒を飲む気分ではなくなってしまっていたのである。
私が初めてお通夜に行ったのは小学生の時、近所でお世話になっていたおばあさんが亡くなった時だった。父と二人で会場に行き、見よう見まねでお焼香をした。帰るのかと思っていると父は宴会場のようなところに行き、ビールを飲みだす。私もジュースをもらい、寿司を食べた。父からは「たくさん食べることが亡くなった人のためだから」と言われ、当時はほぼ食べたことのなかった寿司をつまんだ記憶がある。その時、純粋になぜ人が死んだら寿司を食べるのか純粋に疑問に思ったものだ。歳をとるにつれ、お通夜に参加する機会も増えたし、自分の両親のお通夜、葬式をとり行う経験もした。しかしその都度、通夜振る舞いや精進落としと称してだされる寿司や酒に毎回、違和感を感じていた。故人の思い出を語る場としても宴会をする意味はあるのか。
そういえば母方の親戚が亡くなった時に、家族葬で済まそうとしたところ、その方の住んでいたのが田舎の方で近所の人からそういう催しはやらないのかと母が言われたという話を聞いたことがある。私はその話を聞いて、近所の人は人が死んだのをいいことにただ飯を食べにこようとしていたように感じ、大変、不快に感じた。反対に故人の意向で、完全なお通夜パーティーが開かれ、それに参加した記憶もある。楽しく、明るく送ってもらいたいという故人の希望があったらしい。これはこれで良かったが、一緒に参加した父がベロベロに酔っ払い、帰宅後、母にキレられていた方が印象に残っている。
さて話を恩師のお通夜に戻す。結局、私は小さくなった恩師の姿をみて感傷的な気分になったのだと思う。また先輩や後輩と会ったら馬鹿話もしたくなるし、それなりに気も使う。おそらく、そんなことはしたくないと思っただけだろう。日本人の伝統行事だからしかたないかもしれないが、私と同じ気持ちの人もいるのではないだろうか。少なくとも私自身はこう思っている。
「人が死んだのに、楽しそうに飲みにいくな!」


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