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人生とは、いかに視点を変えないでいられるかというゲームである

ヘッダー画像には昨日の「つぶやき」を再度採用しました。そしてテキストタイトルには、アンチテーゼを採用。

おっと、これは逆さまかな?
「変えないでいられるか」の方がテーゼで、「選ぶゲーム」の方をアンチテーゼと言うべきでしょう。

視点はアイデンティティと言い換えることができます。
あるいはプライドとか。
信念とか。

自身が確立した信念をいかにして貫くか。

「信念を貫くことこそ人生であ~る!!」

ひとかどの人物が宣えばカッコよく決まるかもしれないが、KKO(キモくて金のないおっさん)が吐くと、勘弁してくれよと言いたくなる...

要するに、信念やらアイデンティティやらはその程度のシロモノ。

けれど、この程度のシロモノの方が明らかにテーゼではある。
つまり主流、マジョリティということ。
アンチテーゼのほうは反主流で、マイノリティ。
いつの時代も、と言っていいでしょう。

そして、

「社会のメインストリームの中で、いかにして視点を変えずにいられるか」

は、

「社会の中でいかにして競争を勝ち抜いていくことができるか」

の言い換えです。
競争を勝ち抜くことができれば、様になる。
できなければ、ならない。


しあわせな社会、たとえば日本のバブルまでの高度成長期では「視点を変えずにいる」ことは比較的容易なことでした。その頃は総中流社会などと言われ、社会主義の理想を実現した資本主義国だとして諸外国から称えられていたりした。

そうした安心感が背景にあったからこそ、逆に『男はつらいよ』だなんて甘ったれも、それなりに様になった。カッコよくはないけれど、受容可能な(キモくはない)存在でいられた。

ところが、あれよあれよという間に中流層は崩壊して、格差社会というものになった。「視点・信念を貫くことができる者」の方がマイノリティになってしまった。

にもかかわらず、未だ「いかにして視点を変えずにいられるか」がマジョリティを占めています。『男はつらいよ』なんて、もはやキモいだけなのに。

ま、難しいところです。
年を経ることに難易度が上昇するのが、加えて難儀。


このテキストにはちょっとしたディスコミュニケーションがあります。

「○○○同士で楽しく暮らす」と「一緒に暮らす」は、似て非なる状態。後者は「一つ屋根の下で」ですが、前者は必ずしもそうでなくていい。集落といったような、ある程度の拡がりのある地域のなかで楽しく暮らせばいいのであって、こちらならば実現度は後者ほど低くない。

というか、集落といったような形態ならば、女性も混じるようになる。なぜかといえば、「ヒトとはそういうもの」だから。

一つ屋根のしたで男同士が暮らすという状態は、戦闘状態なんです。典型例は兵舎でしょう。今でこそ女性も兵士になりますが、伝統的というか生来的というか、兵士は男の役割。自然状態で半々である男女が、男だけ、あるいは女だけという状態になるのは不自然で、そこには何らかの理由がある。そうした理由をみなが諒解していれば男だけ、あるいは女だけで暮らすということはできるけれど、そうでない場合には拒絶感が強くなるのが自然状態。


こうしたディスコミが生じるのは、集落といった居住形態が視野に入っておらず、「○○同士で楽しく暮らす」が「(ひとつ屋根の下で)一緒に暮らす」に直結してしまうという思考回路(信念)があるから。

加えて、ここには「少ない稼ぎで暮らす」という前提もあるでしょう。KKOには「金がない」が要素として含まれていますから。生活費の節約のためという合理的な理由があるような気がします。

そんなような消極的な理由で、信念を変えることはできません。まして、反自然状態に入っていくことなど、不可能。

視点や信念を変えるのは〈ワンダー〉ですから。内発的に変わってこそ意味がある。【サンクション】で変えざるをえないくらいなら、信念を貫いて死ぬ方がまだましと、多くの者が感じるでしょう。

その方がまだしも自然。


現在が格差社会だということは厳然たる事実です。

競争の厳しい格差社会で勝ち抜くには「視点を選ぶ」スキルに長じる必要がある。昨今の啓蒙書を一瞥してみれば、よくわかるでしょう。

そも、啓蒙書とは「視点を選ぶ」ことを推奨するものですけれど、反面、勝ち抜くためのテクニックの必要性を説くものことは少なかった。現代は勝ち抜くためのHowToと啓蒙の境目がなくなってしまっています。

視点を選べなければ、生き残れない。
つまり、キモい。
生き残ることができそうがない個体に嫌悪感を感じるのは、生物としてごく自然なこと――ある意味、残酷ですけど。


しかし、競争とはいっても、肉体を使役してのかけっこしているわけではありません。ボクシングをしているわけでもない。一定の【規準】を設け、規準に沿って競争しているに過ぎない。

【規準】もまた、視点であり、アイデンティティであるということ。

それはなかなかに堅牢な視点です。
フリードリヒ・ハイエクが「自生的秩序」とまで呼んだ視点であり、規準ですから。


もっとも、ぼくは「自生的」は言い過ぎだと思っています。「人類史的」とは言い得るけれど、「自生的」とまで言ってしまうとディスコミが生じてしまう。経済学というディスコミュニケーションです。

ディスコミが行くところまでいって、もはや「視点を変えるゲーム」をしないと競争に勝ち抜くことができなくなっている。
パラダイムの末期症状でしょう。


サイエンスの世界では起こることがない、起こすとサイエンティストとしては失格の烙印を押される「原因と結果の取り違え」をエコノミストは頻繁に引き起こしますが、その構造の核は、「人類史的」を「自生的」としてしまう文明的な思考形態、レヴィ・ストロースが言う「エンジニアリング」にあります。

そのあたりの「トンデモ」は、また、追々と。

感じるままに。