幸福の位相
セブンイレブンがコーヒーを新しくしたというので、試しに飲んでみました。100円だし(^o^)
期待はしていなかったのですが、飲んでみてちょっと吃驚しました。予想以上に美味しくなっている。企業努力、というやつなんでしょうね。なかなか大したものだと思いした。
どんなふうに美味しくなったのかほんの少し具体的に触れてみますと、雑味がぐっと少なくなった。コンビニコーヒーは雑味の塊です。だけれども、雑味以上に美味しく感じさせる成分を引き立てることで、美味しく感じるという戦略で「安くて美味しいコーヒー」を提供していた。
素人の見解を申し上げると、この戦略は理(利)にかなっています。儲けを上げようと思うと原価の安い豆を仕入れなければならない。安い豆は品質に劣るのが道理ですが、とはいえ、長所がないわけではない。長所を引き立てることに特化して「美味しさ」を引き出す。
一般的にいって、短所をなくす努力をするより長所を引き立てることのほうが容易なわけです。コーヒーの場合は短所をなくすということは雑味を抑えるということになるのでしょうが、そこは捨てて、とくに香りを際立たせるようなコーヒーに仕立てるという方向性を選択したのでしょう。
ところが、今度のは雑味を抑えるという手間がかかる方向へ踏み出しと感じた。これはなかなか偉いことだなぁ、と思ったわけです。
ちなみに、雑味というのは、苦みとは違います。渋みや雑味は尾を引きます。コーヒーを口に含んで飲み下したあと、口の中に残る不快感が渋みや雑味です。苦みも口に入れた時に雑味と似たような感触を持ちますが、深いな後味は残さない。だから、雑味の少ないコーヒーはすっきりと後味がよい。
よく思うのは、雑味の後を引く後味の悪さは、不愉快な人間と接したときの感触と似ているなぁ、ということ。
特に、立場を振りかざして不愉快を押しつけられたときの感触に。
雑味が口の中でイガイガとした感触が尾を引くように、抗うことができない相手から不愉快を押しつけられると、心がザワザワと波立ってしまって、相当に尾を引く。
幸福というもののあり方も、コーヒーの旨味雑味の関係と少し似ていると思っています。
生きていることは、それが愉しいこと。
生きていることは苦しいことだけど、でも、その苦しさは同時に愉しさでもある。苦しさと愉しさの違いは、捉え方の違いでしかない。
愉しさは旨味です。
旨味には、甘さもあれば、酸味もあれば、苦みもある。
体力のない子どもは、甘みしか旨味として感じられないけれど、大人になって体力が養われれば、酸味も苦みも旨味として感じることができるようになる。
酸味や苦みを旨味として感受できるようになることが人間の成長というもの。
成長は愉しい。いのちの悦びです。
成長するには苦くて苦しい思いをしなくてはいけないけれど、成長の悦びを知っていれば、酸味や苦さは旨味となります。
でも、残念なことだけれども、今は多くの大人が生きることを愉しいことだは感じていないように思います。
苦みと雑味を感じ分けることができていないように思える。
後味が悪くて尾を引く雑味を我慢して味わうことを「大人になること」だと勘違いしてしまっているように思えてならない。
「幸福」という言葉は、もともとは日本語にはない言葉です。日本だけでなく、東洋にはない観念だろうと思います。英語なら“Happiness”と単語で表される観念を、明治時代の日本が「幸福」という訳語を当てた。”Economy”に「経済」という語を、”Philosophy”に「哲学」という語を当てたのと同じ作業の結果でしょう。
一方で、日本語には「しあわせ」という言葉と観念がすでにありました。現在のぼくたちの感覚では
しあわせ=幸福=Happiness
になってしまっていますが、本来は〔しあわせ〕と〔幸福〕とはかなり質の違ったもののように思います。
その違いを説明するのに、「雑味」はちょうどいい。
雑味と苦みの違いがわからなくなったなってしまったことと、〔しあわせ〕と〔幸福〕が一緒になってしまったことの間には、きっと深い関連がある。
〔幸福〕というのは、雑味以上の旨味を引き出し味わうこと。
以前のコンビニコーヒーの行き方です。雑味を抑えるより旨味を引き出す戦略で味わうことができるのが「幸福」。
対して〔しあわせ〕は、新しくなったセブンイレブンコーヒーの行き方です。すなわち雑味を抑える。雑味を抑えることで旨味をより深く味わう。
このような戦略の差は、別の現象からも観て取ることができます。コーヒーは味覚ですが、聴覚関連で例を引くと、イヤフォンがその典型だろうと思います。
街を歩くと、そこかしこにイヤフォンをして「自分だけの音(楽)」を聞いている人を多く見かけます。このイヤフォンは〔幸福〕追求の行き方でしょう。不快な音を遮断するために、より大きな音量で好きな音を聞く。互いに迷惑にならないようにするために、イヤフォンというのは優れた技術であり製品だと言えます。
Sonyの『ウォークマン』から始まったイヤフォンで音楽を聞くことができる製品は〔幸福〕をつくり出すことができる製品だということです。それは、見方を変えれば、つまり〔しあわせ〕の観点から見れば、ちょっと残念な製品だと言えなくはない。手軽に〔幸福〕になれてしまうのなら、手間暇をかけて〔しあわせ〕になろうと思う動機が奪われてしまうことになりかねないし、実際、そうなっていると言わざるを得ない。
ぼくは別に〔幸福〕と〔しあわせ〕を引き比べて、どちらかを上位に置くべしと主張したいわけではありません。上の書き方では、〔しあわせ〕の方を上位におくべしと読めるし、個人的にそう思っているけれども、だからといって、〔しあわせ〕という状態が〔幸福〕より上位のものだという主張をしたいわけではありません。
〔幸福〕追求も〔しあわせ〕追求も、各々が好きな方、自身の適性に向いた方を追いかければいい。
ただ、このことだけは申し上げておきたいと思います。
〔幸福〕は贅沢なもの。
〔しあわせ〕は質素なもの。
そして、ぼくたちが暮らす世界は有限であり、ということは、
みんなが〔幸福〕になることは不可能。
みんなが〔しあわせ〕になることは可能。
だということ。
みんなが〔幸福〕追求に走ると、競争になり、奪い合いになり、〔不幸〕を大量生産する異ならざるを得ないし、実際、そうなってしまっているということです。
「しあわせ」は〈いのち〉というものがもともと持ち合わせている「愉しさ」「悦び」を味わうものです。だから、誰もが〔しあわせ〕は味わうことができるし、人間だけに限らない。どんな生きものにだって、その生きものに固有の「しあわせ」の形があって、いずれもが〔しあわせ〕を味わうことができる。
あいや、世界は有限ですから、〔しあわせ〕のレイアでも競争は生じます。いわゆる「弱肉強食」の世界です。「弱肉強食」の世界は残酷だけど、でも、この残酷さは味覚でいうならば「苦み」です。健全な心身があれば、それもまた「旨味」として味わうことはできるし、なにより不愉快な後味を引くことはありません。
〔幸福〕は人間に固有のものです。人間に固有の〔しあわせ〕の一つのバリエーションと言ってもいいかもしれない。人間の中でも、特定の才能に恵まれた者が味わうことのできる〔しあわせ〕の一形態。だとすれば否定されるべきものではないと思うし、羨望することを否定するのは人間性の阻害だと思います。
〔幸福〕を羨望し実現に向かうのはいいとしても、それとひきかえに〔しあわせ〕になることができなくなってしまったとしたら、本末転倒というものでしょう。
現在ぼくたちが暮らしている社会は、この本末転倒が「フツウ」になってしまった異常な状態なんでしょう。そんな状態が長続きするはずがないし、多くの人もそれを感じ取っているに違いないけれど、でも〔しあわせ〕への方法論を忘れてしまっている。とても危うい状況だと思います。
でも、技術をうまく使うことができたなら、危機的な状況から脱することができるかもしれません。
課題は「新しい技術開発」という方向よりも、「技術の使い方」だろうという気がします。
感じるままに。