『ルールに従う』より引用

63ページから。

非決定性の問題も非最適性の問題も、合理性の道具的把握の経験的適切性に対するチャレンジを提示するものである。われわれはしばしば非最適なインタラクションのパターンに陥る一方で、多くの状況においてそれを回避するいくぶん不思議な能力をも持っている。人々は大抵のとき、コーディネートされた、協力的な仕方で彼らのインタラクションを組織化することができるのである。われわれは協力の失敗をときおり経験する――そして歩道ですれ違うときにときどき困難に陥る――ものの、事実は、大抵の場合そうした種の問題を回避することができるということである。われわれは――得をする裏切りの機会を放棄しつつ――単に楽しみのために協力的に行為することさえある。

抽象的で小難しい文章だが、続きはわかりやすい。


 こうした例をほんの1つあげると、カナダにあるドライブ・スルーのテイム・ホートン・ドーナッツのお店の常連客は、ときどき以下のようなゲームをプレーして楽しむことが好きである。ある人が、彼自身の注文だけでなく、彼の後ろにいる車の人の注文(彼が窓にくるときまでには、すでに注文されている)の分まで支払うことからゲームは始まる。後ろの人は、ドライブ・スルーの窓に到達するときに、自分の注文が前の人によってすでに支払われていることがわかってびっくりするだろう。前の人はこの時点で車で走り去っている。今度は彼女がこれに反応して、後ろにいる次の人の注文の支払いを行う。これは,誰かが最終的に裏切り、ただで自分のコーヒーかドーナッッを手に入れて車で走り去るまで続けられる。ティム・ホートンの従業員は、朝のラッシュ時間には、「後ろの人の分まで支払う」システムはしばしば30分またはそれ以上続くだろうと報告している。

読んだだけでうれしくなりますね。

このシステムにおいて協力が明らかに裏切りに対して脆弱であるという事実は、おそらく人々がそれを創出し、維持することに喜びを感じる理由の1つとなっているだろう。
 おそらく誰しも、この種の「後ろの人の分まで支払う」逸話には馴染みがあるだろう。

協力が裏切りに対して脆弱であるという事実が、
協力を創出し維持することの悦び(インセンティブかつモチベーション)になるという事実。

人間には「協力する」という能力が備わっている。
備わっている能力を発揮することは悦びである――これは「〈しあわせ〉の哲学」の第一テーゼです。


近々、上のゲームとよく似た構造の(別の)ゲームをしてみようと思っています。上のゲームはドライブ・スルーというシステムを利用しての協力維持ゲームですが、ぼくが考えているのはnoteのシステムを利用してのゲーム。

はてしてゲームになるかどうか。

感じるままに。