「意味」と「価値」を融合せよ

 生きていることの「意味」とは何だろうか
 人生の「価値」とは何だろうか

このような問いに真摯に返答するならば、どのように答えればいいのか?


生きていることや人生を問うたとき、「意味」や「価値」は似たような内容を持つと感じられます。では、似ているから同じなのかと突っ込まれると、ちょっと違うような気もします。

上のように問われたならば、

 生きていることそのものに「意味」がある
 人生それ自体に「価値」がある

と返したいところですけれど、ともすれば安易になりがち。真摯に返すには、「意味」と「価値」の違いを吟味してみる必要があると思います。

言葉で問うなら、できる限り「意味」を明確にした言葉で返すのが真摯というものです。


結論から先に言ってしまうと、

 “生きていることそのものに「意味」がある” は、正しい。
対して
 “人生それ自体に「価値」がある”は 、誤り。

――と、(暫定的に)考えます。

つまり、“生きていること(人生)そのものに「意味」はあるが「価値」はない”ということがあり得るということ。

以下は、そのように考える理由。
そして、そうした認識から出発して、どう歩めばいいのかを考えます。



☆〈しあわせ〉な経済

「意味」も「価値」も似ています。生まれたところは同じだからです。一卵性双生児のようなものです。生みの親は、いうまでもなく「言葉」です。

「意味」も「価値」も、言い表されてこそ意味あるいは価値を持ちます。言い表されない「意味」に価値はないし、言い表されない「価値」に意味はない”と言うことができます。

「意味」と「価値」の違いは、「言い表す」ことの目的の違いです。「言い表す」のは何のためか。コミュニケーションのため。言葉は「伝えるため」に生まれた。


コミュニケーションは「意味」のやりとり。「意味」の交換です。

「意味」と「価値」が分離する以前の「意味+価値」においては、コトバとモノ(サービスを含む)の区別もまた存在しません。原初的な経済においては、コトバとモノは同じ価値を持っている。

このことは親しい者同士のコミュニケーションを考えてみればわかります。親子、夫婦、友人恋人同士など深く繋がった間柄では、モノやサービスはいとも簡単にコトバと交換される。モノのプレゼントに対して交換物として差し出すのはコトバでいい。「ありがとう」でいい。

コトバとモノやサービスとが同一次元で交換される経済は、

原初的で〈しあわせ〉な経済

です。


★「価値2.0」の誕生

原初的な「意味+価値」の融合を「意味」と「価値」とに分離するのは、

「距離」


です。空間と時間が原初的な融合を切り離してしまします。

人間のコトバは、もともとは“話し言葉”でした。話し言葉が伝わるのには物理的限界があって、それは(現代の人間の活動範囲を基準に考えると)非常に狭い。声が届く範囲にしか伝わりません。

ヒトは生まれながらにして言葉をもつ生き物ですが、生まれながらの言葉は話し言葉です。が、話し言葉だけでは文明は生まれない。文明が生じるには“書き言葉(文字)”が必要でした。


文字が生まれたことで、分離したのが「意味」と「価値」

原初的な「意味+価値」の融合から(隔たった距離を超えて)「伝えること」に特化したのが「価値」。(距離は考慮に入れず)「言い表すこと」に重点をおいたのが「意味」です。


書かれたコトバ(文字)は、時間を超えて意味を伝えることができる。文字が記されたモノが運搬されれば、声の届く範囲を超えて(空間を超えて)意味を伝えることができる。

ただし、技術がまださほど発展していなかった時代は文字を残すにも運搬するにも、大変なコストがかかりました。複雑な意味は伝えたくても、物理的・経済的に(現実的に)伝えるのが困難だった。

けれど、伝われば「価値」が生まれる。
「価値」が伝われば、声が届かない場所と交易をすることができる。現実的制約から「価値」は単純なものへと変化した。「価値」は単純でも充分に「価値」として機能することを人類は発見した

文字と貨幣がほぼ同時期に発明されたのは偶然ではないでしょう。

文字も貨幣も「価値」の単純さの発見が生み出した「新たな価値」だった。「新たな価値」が生まれたことで「価値の伝達方法」が「価値」となった


「意味」と融合している「(複雑な)価値」を「価値1.0」とするなら、

「意味」から分離して単純になり、単純化された「価値1.0」の伝達方法(文字・貨幣)に価値があると感じるようになった価値は「価値2.0」だと言うことができます。

「価値2.0」の誕生で、「意味」と「価値」は分離してしまいます。それは、社会が発展して大きくなった、すなわち文明化したということでもあります。


★「価値2.0」が生み出したもの

メディア(テクノロジー)は身体の拡張であり、同時に身体感覚の変形でもあります。「価値」が「1.0」から「2.0」へと変化したのは、文字という新しいメディアの発明、すなわち「イノベーション」。

このイノベーションによって、ぼくたち文字文化人間(文明人)の身体感覚を改変した。iPhoneの登場で、ぼくたちのメディア生活は大きく変わりましたが、それと同様で、かつもっと根源的なことが文字と貨幣の発明によって生じました。


文字や貨幣の発明が「イノベーション」だとするなら、文明人の教育は「マーケティング」です。

通常の意味でのマーケティングは消費者の嗜好調査といったところですが、ドラッカーが用いた意味においては顧客開拓です。教育とは、文字や貨幣の顧客を開拓して、文字と貨幣の市場を拡げるということに他なりません。


とはいえ、人間は完全に教育化してしまえる存在ではありません。メディアによって身体(社会)が拡張し、身体感覚が変形しても、生来の感覚が失われるわけではない。「価値2.0」は「価値1.0」を完全に上書きしてしまうわけではない。

が、つい最近までは、完全に上書きすることができるし、そうするべきだと考えられていました。

「価値2.0」とは、別の一般的な言い方をすれば「理性」です。

理性によって人間はコントロールされるべきだし、することができる――といった理性信仰を「啓蒙主義」と言います。

現代では「啓蒙主義1.0」と言うべきでしょうか。

上掲書には、

「政治・経済・生活を正気に戻すために」

というスローガンが書かれています。
つまり現在の政治や経済、それらを基盤として営まれている生活は

「狂気」


に満ちているというになります。

では、その原因は何なのか?
単純に考えれば「啓蒙主義1.0」でしょう。

もっとも、単純に考えていいのかどうかはまた別問題です。


★「疎外」が生まれるところ

「価値1.0」は文明人の中にも生き残っている。

このことは話し言葉と書き言葉、そして文字の中の文字である貨幣の3つについての身体的距離感を自身に問い合わせてみればすぐに了解できます。


もし、親しい者から贈られたプレゼントに値札が付いていたら。

親しい間柄とは〈原初的な経済〉を営むことができる間柄。モノやサービスとコトバとの交換が成り立つ関係性。「互恵」とも言いますが、そうした関係性においても現代は、機会を見つけてプレゼントを贈るという“イベント”が催される。親しい間柄を相互確認するために。

プレゼントに値札が付いていると、親しい者同士の〈原初の経済〉は途端にぎこちないものになってしまうことでしょう。〈原初の経済〉においては「ありがとう」の言葉でプレゼントと交換を為すことができるのに、この〈交換〉にハードルが立ちはだかったように感じてしまう。“疎外感”が生じてしまいます。

理由は、「意味+価値」の融合を分離した「距離」が紛れ込むからです。物理的(空間的・時間的)な距離があるわけではない。文明人たるぼくたちが、文字や貨幣の顧客となることで獲得した拡張感覚の、“拡張した部分”すなわち「内的な距離感」が、価格という貨幣尺度の表現と遭遇することで露わになってしまう。露わになった「(内的)距離感」が〈原初の経済〉を阻害(疎外)するのです。


貨幣や文字はより遠くの者(見知らぬ者)を近くに引き寄せる効果があります。それまで交易ができなかった人たちに「価値」が伝わって新たに交易ができるようになったとするなら、物理的距離は同じでも心理的な距離感はぐっと縮まります。

しかし、文字や貨幣の引き寄せ効果には限界があります。文字や貨幣ではある距離以上に人間同士を引き寄せのは難しい。それをするには想像力という別種の力が必要になります(この問題は、また別の機会に)。

文字や貨幣にはそれぞれに特有の距離感があります。近しい人間同士の関係に文字や貨幣が介入すると、文字や貨幣が備えている「距離(感)」にその人たちの関係性を引き離してしまおうとする効果を持つ。ゆえにプレゼントに値札が残っていると、〈原初の経済〉はうまく回らなくなる。貨幣の「距離(感)」では成立する【貨幣経済】の陰が混じり込む。

【貨幣経済】は「距離(感)」が親しい間からよりも遠い「他人」との間で取りかわす経済活動。〈原初の経済〉に【貨幣経済】の要素が混じり込むと、他人行儀になってしまって「ありがとう」のコトバだけでは「距離(感)」を埋めることが難しくなります。


つまり、「疎外」とは、埋めることのできない「距離(感)」のことです。

そして「疎外」こそが人間が〈しあわせ〉であることを阻害する原因です。

「人間が〈しあわせ〉になること」ではありません

「人間が〈しあわせ〉であること」


です。この違いは微妙ですが、とても大切なところです。


☆アルゴリズムとメカニズム

以上、メディア(テクノロジ-)の発明に伴う身体感覚の変化を簡単に記してみました。まとめると、

・「意味」と「価値」はもともと融合していた
・文字と貨幣の出現で「価値2.0」が生まれ、「意味」と「価値」とが分離した
・とはいうもの、「価値1.0」が「価値2.0」に上書きされてしまったわけではない


「意味」から「価値1.0」を生成する機序を、ここでは〈アルゴリズム〉という表現をしたいと思います。また、「意味」から「価値2.0」を生成する機序は【メカニズム】と呼ぶことにします。

〈アルゴリズム〉において、「意味」と「価値」は同値です。つまり「意味」の〈複雑さ〉はそのまま「価値」の〈複雑さ〉。

〈複雑さ〉とは「語り得ぬもの」でもあります。また、〈「語り得ぬもの」を語ろうとすること〉を〈物語〉と表現します。

〈物語〉とは〈(人間の)アルゴリズム〉の発露であり、「語る者」として生まれ出てきた人間が備えた能力を発揮しようとする欲求、すなわち〈生きること〉に他なりません。


【メカニズム】は文字と貨幣の誕生とともに、人間の身体感覚を変性させながら構成されてきました。【メカニズム】の生成は、文明発達のメカニズムと言っていいのかもしれません。

【メカニズム】は、空間や時間という「距離」を超えて伝えていくという文字や貨幣の性質上、「意味」を単純なものにしていかざるをえません。ただ、幸か不幸か人間は、「意味」を単純化した「価値」も「価値」として機能することを発見して新たな「価値2.0」を創造した。【メカニズム】とは文明発達のメカニズムであると同時に、「意味」を単純化していくプロセスでもあります。

このプロセスは、物理的・歴史的に必然なものでした。しかし現在、ぼくたち人類は、「価値2.0」を生んだ歴史的プロセスから自由になろうとしています。新しいメディア(テクノロジー)の出現によって。


☆「価値3.0」が生まれつつある

この記事で指摘されているのは、「価値2.0」によっては可視化されなかった「価値の発見」です。

ツイッターのRTのやり取り、Facebookのいいね、Youtube、そうしたやり取りのなかで、多くのひとが価値を生んでいるというのは異論を挟むひとはいないだろう。それらの価値は、価値をもっているのにもかかわらず、お金という形で表出してこない。GDPに直接カウントできてない「見えない」価値創出なのだ。その規模は、すでにものすごく大きい。

お金(「価値2.0」の伝達手段)によっては可視化されない“価値”。この“価値”を仮に「価値3.0」と呼ぶことにすると、「価値3.0」は「意味」や「価値1.0」に近いものではないかと感じます。

慎重にいえば、「価値3.0」が「価値1.0」に近いという保証はどこにもありません。ただ、近いと期待しているというだけのことです。

けれど、そうした期待を持つことこそが人間というものだと思います。だから、その期待に沿うような「価値3.0」を創出していく。それは望めば出来ることだし、できるだけの技術をぼくたちはすでに手にしている(しつつある)。

だとすれば、大切なことは「価値2.0」によって歴史的に生成されてきたぼくたち自身の身体感覚を見つめ直すことでしょう。

僕らは、暗号通貨によって、見えない価値を支えようとしている。
僕らは、暗号通貨によって、見えない価値を創造しようとしている。
僕らは、暗号通貨によって、パラレルワールドを作ろうとしている。

それができないと「パラレルワールド」はパラレルワールドのままになってしまうかもしれない。暗号通貨(少し前までは“仮想通貨”と呼ばれていた)は、貨幣が持っているアンビバレントな性質(近づける一方で引き離す)を、もっと際立たせたものになるかもしれません。

そうなると、〈(人間としての)アルゴリズム〉に沿って〈しあわせ〉であろうとする人間をますます引き裂いていくことになってしまうでしょう。

『ホモ・デウス』へと歩みを進めるほかなくなる。

それはそれで(なれる人間には)「しあわせ」なのかもしれませんが。

感じるままに。