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“a boy meets a girl” or ”a boy gets a girl”?

こんな記事を目にしました。

幸福感にとって重要なのは、所得や学歴よりも「自己決定」である、と。

そりゃ、まあ、そうでしょうね。
言われてみればと思うか、言わなくてもと思うかは別にして。

上掲記事にある研究はすぐに見つかりました。

ざっと目を通してみたのですが、、、疑問が生まれてきました。ここで調査対象になっている「幸福感」とは何なのか。

で、言葉をさぐっていたら思い浮かびました。

“a boy meets a girl”
or
 ”boy gets girl”?

ここで言われている「幸福感」は、どちらかというとGet!の方だよな...(”!”も欠かせない)。


わかりますよね?
”meet”と”get”の感触の違い。

わかりますよね? と同意を求めたくなる感じも、わかっていただけると思います。

「わかる」というより、むしろ「感じる」という感じ。

“a boy meets a girl” は、胸に響くというか。

ぼくのようなオッサンには、過ぎ去った過去の切ない想い出なんて、言葉にするのも小っ恥ずかしい感触が湧き上がってきたりします。

”boy gets girl” だと響くのは頭。アタマに響いて、man gets woman、man gets girl と連想ゲームが捗り、パパ活かい! と、ひとりでツッコミを入れたくなるww

“a boy meets a girl” も、”boy gets girl” も、言葉にされている状況が満たされれば、感じるのは「幸福感」でしょう。けれど、このふたつは違う。同じ言葉で指し示されるのはわかるくらいに似ているけれど、感じ分ければ明らかに異なります。


“a boy meets a girl”は、〈しあわせ〉を感じさせます。そして、この〈しあわせ〉感から遡れば、”a”は必須です。「ある、ひとりの」という個的な感じはどうしても欠かせません。

対して、”boy gets girl”では、”a”は欲しくない。あってもなくてもいいんだけど、あると余計に罪悪感が深くなるような感じがする。それは“a boy meets a girl”に”a”があると〈しあわせ〉感が高くなるのと、ちょうど正反対な感じ。



さて、話は戻って「自己決定」です。

「自己決定」ということでいうと、“a boy meets a girl” と ”boy gets girl” には機序に差があります。

”boy gets girl”では、先に「自己決定」がある。ゆえに、その後に続くのは、いかにして「自己決定」を実現させるのかというストーリー。この手のストーリーは実現の可能性を合理的に考察することもできて、その合理性を追求すると、「工学」になります。

冒頭の記事が、サラリーマンとフリーランスとを比較して、サラリーマンの方が幸福度(というより幸福獲得度)が高いと考えられる――記事の時点ではあくまで仮説に過ぎないけれど、上の研究はその仮説を裏付けるものだということができる(記事の書き方の順番は逆だけれど)ということ。

「獲得度」と考えられる時点で、工学的だといえます。


“a boy meets a girl”では、「自己決定」は後です。“a boy meets a girl” を描くストーリーは、それこそ星の数ほどあるでしょうけれど、かの物語の構成では「自己決定」こそがファイナルアンサー。ファイナルアンサーが実現すればハッピーエンドだし、実現しなければバッドエンド。

ハッピーとバッドの違いは、物語(を鑑賞すること)の幸福度にとっては決定的な要素ではない。鑑賞者にとっては幸福の質が違うだけのことで、ハッピーでもバッドでも、どちらでも愉しむことができる。できるからこそ、どちらでも大きな支持を集めています。

もっとも、当事者となると鑑賞者ほど簡単にバッドも愉しむというわけにはいきません。ですが、この「簡単にいかないこと」を人類はずっと「人生の目的」としてきました。

宗教的あるいは哲学的な営みが絶えないのは、人類の目的が未だ達せられないからでしょう。

敢えて工学的にいうならば、人類学的(?)な「人生の目的」へと到達するには、happyよりもunhappyであるほうが可能性が高い。けれど、人間にとってはhappyが望ましい。絶対的に望ましい。

絶対的に望ましいこと(仏教の言葉でいえば煩悩)を断てと宗教は教えるけれど、絶対的に難しいから宗教に絶望的になるか、そうでなければ宗教が絶対的になるか。かつては後者だったし、現在は前者が優勢。

これは、歴史的な流れと言っていいでしょう。


その流れから生まれつつあるのは、”a boy meets a girl” を工学的に考えていくこと――希望的観測ですが。

感じるままに。