逆層を攀じる

若かりし頃、クライミングにハマっていたことがあります。

クライミングというと、現在の流行はフリークライミング。安全を万全に確保しておいて、どんどん難易度の高い壁に挑んでいく。人工壁をクライムすることも盛ん。

要するに、スポーツです。
スキーやスケートが、雪面・氷面の歩行技術からスポーツになったように。

ぼくがクライミングをしていた頃は、フリークライミングがぼちぼちと話題に登るようになった頃。クライミングは登山の一分野で、登山をスポーツというにはちと難がある。良く言えば、冒険。有り体に言えば、愚行。


ぼくの好みは、沢登りという分野でした。水の流れに逆らって、滝を攀じ登ったりするやつ。


岩壁には攀じることが容易なのと、そうでないのとがあります。手がかり足掛かりが豊富にある壁は、高低差が大きくても登りやすい。逆に手がかり足がかりに乏しい壁は登りにくい。

岩にはたいていデコボゴがあります。そのデコボコが上を向いているのと、逆に下を向いているのとがある。上向きを順層、下向きを逆層という。

順層は登りやすい。
逆層はたくさんデコボコがあっても、手がかり足掛かりにならない。登るのが難しい。


逆層の岩場で多用するというか、しなければならない技術にアンダーホールドがあります。アンダーホールドは技術の名前ではないんですけどね。下向きの手がかり。

上向きの足掛かりに足をおいて、手は下向きの手がかりを下から持ち上げるようにして、上下に突っ張るようにして身体を岩場にホールドするやり方。


クライミングの基本は三点支持と、岩から身体を離すこと。
三点というのは、手が2つ足が2つのうちの3つは、岩場にホールドしておくということ、つまり動かすのはどれかひとつということ。安全の基本原則。

岩から身体を離すのは、視界を広げるため。恐怖感があるうちは岩にへばりつこうとするけれども、そうすると岩が近くなって視界が狭くなる。

三点支持の基本を覚えて自信が生まれてくると、垂直な岩場への恐怖感が薄らいでくる。そうなると身体を岩場から話すことにも抵抗がなくなり、視界が広がる、クライミングが楽しくなる――実践的理性とはいわないけれど、同じような構造です。


が、逆層では、その基本を実践することが難しい。

想像してもらうとわかるでしょうが、アンダーホールド、手足で上下に突っ張りながら、なおかつ岩から身体を離すというようなことは物理的に無理のあることです。でも、そうしないと岩場にすがりついていられないなら、そうするしかない。優先順位は、視界を広げるよりも、落ちないこと。

でも、そうなると、恐怖感は大きくなります。慣れていたとしても、それは、恐怖感を抑制する力が強くなるということであって、恐怖感が薄くなるということではない。恐怖感そのものが薄くなるのは、かえって危ないことです。

ちょうどアンダーホールドの体勢のように、恐怖感と抑制力とを突っ張るようにして、意志を維持しなければならない。




こんなようなことを記してみたくなったのは、今また、逆層を攀じるようなことをしていると思ったから。

やりたくてやっているわけだから、クライミングと同じく「愚行」なんだけれど。

とはいえ、当人には、たとえ愚行ではあっても、それをしなければならない内的理由がある。

その内的理由とは、

というような類いのもの。決して愉快な、順層の岩場を登っていくときのような爽快感があるような類いのものではない。


もし、そこに爽快感のようなものがあるとしたら、別のルートへと行ってしまっています。

逆層といえど登り切った後には爽快感・達成感があります。困難な登攀を成し遂げたがゆえに、達成感は大きい。けれど、登攀最中にはない。どれほど達人であっても、いや、達人であればあるほど、落下の恐怖と意志の均衡を意識することになるから、そこに爽快感を見出すようなことはない。


登攀最中なのに、爽快感を感じることができているのなら(将来への期待とか)、それは別ルートです。自分の登りやすいところを登っているだけ。


自分の登りやすいところを登るのは、悪いことでもなんでもありません。これは趣味なのだから、好きにすればいいだけの話。だけど、それで敢えて困難な壁を攀じるという愚行をしなければならない人間に寄り添えると思ったのなら、大間違い。


だれにだって、多かれ少なかれ「逆層の壁」はあります。少なければ幸運だけど、幸運か不運かは宿命のようなもので、自身の力でどうこうできるものではありません。

けれど、逆層だって登れなくはない。そして、自分の中にもあるはずの「逆層の壁」を避けているうちは、どうしてもわからないことがある。


――というような、大上段の口ぶりは、逆層から目を背けている人には不愉快に響くことでしょう。逸らしたい者に逸らすなというのは、これまた強制になってしまうから。

だからといって、逆層を攀じる風景を表現しても、緊張感が高い不安なものにしかならないから、余計に目を逸らしたくなるという逆接。

不安だ! と声をあげると周囲は応援してくれたりするけれど、攀じり方を教えてくれるわけではない。攀じり方の伝達は不安にさせてしまうから、応援にはならない。

この領域では、言葉は本当に役立たずです。


言葉を越えた表現。それは芸術と呼ばれますが、芸術に使命があるとするならば、言葉では伝達不能とはいわないけれど、感情的に逆接的になってしまうところを、順接で伝えられるところでしょう。

だから、皮肉なことに、逆層に生きる人ほど、生きざるを得ない状況を生み出す文化ほど、哲学的かあるいは宗教的とでもいうべき芸術表現を生む。


精神性の深い芸術表現が生まれる状況は、かえって不幸であるという逆説。

にもかかわらず、逆接を撥ねのけて順接へと再編集する能力がある人間という生き物――

やはり、人間は信じるに足ると思います。

感じるままに。