山川草木悉皆成仏

森へ行きましょう

1ヶ月ほど時間を費やして読み終えました。

1966年の同じ日に生まれたふたりの女性、ルツと留津。それぞれの人生を描いた小説――ではあるけれど、実はルツと留津は同一の人物だろう、同一の人物に違いないと、読み進めるほどに考えたくなる小説です。

哲学的な小難しい言葉でいうと、偶有性。存在することもしないこともありうるものの在り方。

偶有性を真正面から説明しようとすると、言葉の迷宮に入っていってしまうのは必至。ということで、サブカルの力を借ります。

『STEINS;GATE』。もともとはゲームだそうですが、ぼくはアニメしか知りません(ぼくが見たアニメのOPは上掲とは違っているような気がするけど、まあ、いいかw)

ここに、「世界線」なる概念が登場します。
偶有性とは、『STEINS;GATE』でいう世界線の束のこと...で、わかる人にはわかってもらえると思うのですが...?


ルツと留津に戻ります。
同じ日に別々の場所で生まれた(という設定になっている)二人が、小説の中で、間接的に接点を持ちながら同時進行で人生の物語が進行していく。間接的にというのは、留津とルツを取り囲む周囲の登場人物が同じ。

たとえば留津に対して人物Aは恋人で、ルツに対しては同僚といった具合。そんなような接点が幾つも絡まり合って、読み進めるとどっちがどっちだかわからなくなってしまいそうになる。それが著者の狙いだと思うのですけれど。

留津かルツかの判別を読者であるぼくがしているのは、実は名前によってではなくて、人間同士の関係性によってである――ということも、物語を読み進めるうちに理解するようになってくる。Aの恋人なら留津、同僚ならルツというふうに。

でも、ちょっと想像力を働かせてみると、ルツの方が恋人で、留津のほうが同僚ということもありえたかも知れない。「ありえたかもしれない」が偶有性。

ま、この際、哲学はどうでもいいですが、面倒くさい概念を言葉ひとつで指し示すことができるのが、便利です。


森の草木を眺めていると、支配しているのは偶有性だということに気がつきます。たまたま「その場所」で種が芽吹いたから、「この形」になった。

もちろん、スギとヒノキはそもそもの形が違う。ケヤキとナラも違う。スギとヒノキとケヤキとナラの形の違いは、偶有ではなく必然。

ところが、同じスギでもまったく同一の形をしているものは存在しない。みな、微妙に、ときにはあからさまに形が違う。こちらの違いには、偶有という言葉があてはまります。



さて。モードはガラリと変わって。


小説『森に行きましょう』は、実は本テキストの主題ではありません。カモフラージュです。今日、書きたいことは『森に行きましょう』を読み終えた翌朝にニュースで接したできごと。

『森に行きましょう』は1966年生まれの二人の女性という設定。これから書きたいことも、同様の事態が成立しています。どこかの作者の「設定」ではなく、単なる偶然としか言いようがないことですが。

ぼくは1967年の生まれ。もう一人、三日ほど前まで実在していた人物もそのよう。同じ日ではないでしょうけれど。家庭のなかで家族になれずに成長せざるをえなかったらしいと報道されているをの知って、彼はどうにかするとぼくだったかも、と思ってしまうぼくがいる。

あまりおおっぴらには書きたくないのだけど、でも、書いてみたい。

彼が背負う羽目になった理不尽な負債感は、実感としてよくわかる気がする。もっとも、ぼくはもう、負債は支払い終えていると自負してはいるけれど。それでも負債感は、まだ、ありありと胸の内に残っている。



どこぞの落語家が「死ぬならひとりで」という旨の発言をして、そうした発言は控えるべきという発言もあって、それぞれ賛否両論、論戦になっているようです。

(控えるべき発言の方は、論戦に積極的ではなさそうだけど。)

世の大半は、「死ぬならひとりで」のほうに共感するでしょう。そのことはよくわかる。ただし逆接的に、だけど。ぼく自身は正直言って「死ぬならひとりで」に反発を覚えます。

この言葉が、自分にとってかけがえのない存在を巻き込まないで欲しいという、ごくごく平凡で切実な願いの表現だということは理解できます。でもね。それが平凡を切実に感じることができるのは、自分が誰かにとってかけがえのない存在だったという経験が経ている者、なんですよ。そうした経験を経ていない者からしてみれば、そこは自分に欠けているところだという形の認識にしかならない。「識ることができない」という形でしか識ることができない。だから逆接です。

ゆえに、ぼくは順接的には「彼」のほうに共感してしまいます。それが偶有を経て、「いま、ここ」に存在する「ぼく」という人間の偽らざる心。


ぼくには「死ぬならひとりで」といったような感想(?)は湧き上がりません。ぼくに湧き上がるのは、「それしか方法がなかったのか...」という言葉。「彼」を取り巻いた偶有性は、その方法しか「彼」に許可しなかったのだろうと思います。

人間は、自分で思っているほど自由ではありません。なぜなら、ひとりの人間が「識ることができない」ことがこの世界には存在するからです。ぼくや「彼」は、大多数の人間の「平凡な切実」を識ることができない。同様に、大多数の人間は、ぼくや「彼」の「非平凡な切実」を識ることができないでしょう。


そして、です。ここは声を大にして言いたいのですが、「識ることができない」ということを識ることになる可能性が高いのは、少数派のほうです。もちろん、多数派にだって可能性はあります。ただし、その可能性を阻害する要因が多数派にはある。その要因とは、なんのことはない、多数派であるという事実です。

件の落語家は「死ぬならひとりで」発言は多くの父母の偽らざる気持ちだと述べていますが、まったくその通りでしょう。その事実が、その落語家に「識らなくてもいい」という【正義】を供給している。落語家は正義を背景に自身が「識っている」ことを声高に主張することができる。それは、大多数のものにとっては正しいだろうけれど、この社会の中には、その正しさが「悪魔の声」となって届いてしまう人間が存在します。

「正義の人」は別の意味で「無敵の人」でもあるんですね。多数という意味で無敵。識りたくないことは識らなくてもいいという意味でも無敵。

少数派は残念ながら、識りたくないことを識らないと生き抜いていけない。なのに、理不尽なことに、「識る」ためには安全基地が必要になる。

「識る」ために安全基地が必要だというのは、偶有ではありません。これは、ヒトが人間であるために必要な必然です。その必然を偶有でもって奪いながら、必然の必要性を説く。これこそ理不尽な負債を背負わせる行為に他ならないのだけど、識りたくない者は【正義】を背景に識ろうとしないし、識らないでも許されてしまいます。



もうひとつ、書きたいことを書きます。上で「識ることになる」と記した意味についてです。最初は「識ることできる」としたのだけれど、訂正しました。「できる」の語に含意されがちな優越感など、ここにはないからです。

もし仮に、家族を自分で選ぶところから人生をやり直すことができ、「識ること」ができるかできないかを選択する権利を与えられるというならば、「識らないで済ませる」ほうを選択したい。多数派に与し、【正義】を背景に識りたくないことは識らないでいられる方へ行きたい。なぜなら、その方がずっと楽だから。

先に述べたように、今のぼくは、「識ることができない」ということを識っているという自負を持っています。本来なら自分が支払うのではない対価を支払ってきたという自負がある。その自負とともに「(「識ることができない」ということを)識ることができた」ことが自己肯定感になっています。

逆接的な自己肯定、ですが。

自負はあっても、それでもやっぱり、選べるものならば順接の方を選びたい。これまた偽らざる心。もはや逆接を呪うような場所にはいないけれど、それでも、逆接を経由するようなことは選択したくない。その心を書き表せば「ことになる」という表現になる。


世の中が理不尽は、ハードルが高い「逆接経由」が果たされなければ、それは更なる逆接を生むという事実にあります。罪なき負債を背負わされた人々、今回の事件に関して言えば、負傷者と遺族。彼らはこれから、理不尽な負債を支払っていかなければなりません。

「死ぬならひとりで」といった類いの【正義】は、今回、新たに生まれた「逆接」の人々に対しても無力です。いくら叫んでも、時計の針は巻き戻らないのだから。

【正義】にとっては、これもまた「識りたくない」ことでしょうが。





感じるままに。