見出し画像

〈折り合い〉と【隷属】

今は季節ではありませんが、キノコの話から。

テングダケというキノコがあります。とてもマンガチックな姿をしているキノコ。子どもにキノコを描かせると、まあ、子どもでなくてもですが、多くの者がイメージするキノコらしいキノコ。大きな上にポコポコと斑点というか、マメのようなものが乗っかっているやつ。

このテングダケにはいくつか種類があります。どれも美味しいキノコです。でも、一種類を除いて毒を持ってる。その一種類はタマゴタケといって、デングダケの特徴的な傘の上のポコポコがないスッキリした鮮やかな(紅色)の姿をしたキノコなんですが、ちょっと色が鮮やかすぎて毒々しく見えなくもないので、直感的には毒キノコに思える。ところが美味しくいただけます。秋の野山の中でも最上のもののひとつ。

で、若かりし頃の話なんですが、毒のあるほうのテングダケを面白がって食べたことがあるんです。とある人から「一本くらいなら、まず、死なないよ。気分は悪くなるかも知れないけどw」といった話を聞いて、若気の至りだったのでしょう、じゃあ、試してみようと食してみました。

とりあえず、一本。
炭火で素焼きして、塩をふって。
なかなかの美味でしたし、気分が悪くなることのなかった。調子に乗って、じゃあ、もう一本と思ったけど、それは止められました。死なれたら困るから、と。そりゃあ、そうでしょうね...(^_^;)

毒ではあるけれど、その量に至らなければ死なないという限界がある。その量には個体的な差異があって、一定ではありません。その量を摂取すると半数の人が死ぬであろう量を「半数致死量」といいますが、たいていの毒物で「致死量」と表示されるのは、半数致死量です。だから、致死量でなければ大丈夫とは確率的に言えません。

なので、面白がってテングダケを食べてみるというのは、かなりヤバイ振る舞いです。「よい子の皆さんは真似しないように」という決まり文句で締められなければならない、おバカな話ですww


毒物は身体とは折り合いはつきません。死に至らなかった量だからといって「折り合い」がついているわけではない。毒物が与えるダメージが死に至るほど大きくなかったということは「折り合い」がついたということではない。

といって、毒が身体に何ら良いと思われる影響がないわけでもない。前回、コーヒーについての話をしましたが、コーヒーや茶に含まれるカフェインは身体には「折り合い」がつかない毒物でありながら覚醒作用という効用が認められています。タバコに含まれるニコチンにも覚醒作用がある。また、お酒の成分であるエチルアルコールには覚醒とは逆の酩酊作用があって、覚醒・酩酊のどちらの作用も度を超えなければそれなりに良い効果を期待できます。ゆえに多くの人に嗜まれと同時に、もっと多くに人を依存症へと誘ってしまいます。

毒物を致死量を超えないのは当然のこと、良い効果を期待出来る範囲で用いることは「折り合い」と言えなくはありません。医薬品なども基本的には毒物ですから、この範囲の「折り合い」を否定してしまうと、相当困ったことになるという現実はあります。

いつのように私見です。
困ったことがあったとしても、ぼくはそこを「折り合い」と表現するのは間違いだろうと考えます。いえ、間違いというより、言葉の問題でしょう。毒物を良き効用の範囲で使いこなすことを指すのに、感覚的にピタリとくる言葉がない。学術用語なら、それこそ「薬物の適正使用」とでも言えばいいのでしょうけれど、ちょっと感覚的に響きません。

そうなると、ぼくの得意技なんですけれど、感覚的な言葉に記号を用いて区別するというやり方をする。「薬物の適正使用」に相当する「折り合い」は〔折り合い〕と書く。同じ「折り合い」でも〔折り合い〕とは異なるところを〈折り合い〉と表現してみる。


では〈折り合い〉とはどういうことを指し示すのか?

前回の『幸福の位相』と題した文章の内容でいうと、「苦み」を味わうということは〈折り合い〉になると思います。一方で、「雑味」とは〈折り合う〉ことはできない。「雑味」においてできるのは、旨味を味わうことができる効用と比較して、その正の効用が「雑味」の受け入れる負の効用を相殺して優っている場合に〔折り合い〕として、正負の効用をともに受け入れることだけです。「薬物の適正使用」と同じですね。

そうそう、この〔折り合い〕には「妥協」という言葉を当てはめるのがいい。正の効用を受け入れる代償として、どうしても付随してくる負のほうも受け入れる。これには「妥協」という言葉がピッタリでしょう。


しかし、妥協をして〔折り合う〕ことは、好ましいことではありません。どうしても必要なら仕方がないところはあるけれど、出来ることなら近寄らない方がいい。

というのも〔折り合い(妥協)〕が効く毒物には、自立を妨げる効果もあるから。痛みが酷くてどうしようもない時に鎮痛剤を飲むのは仕方がないけれども、鎮痛剤を常用すると、やがて鎮痛剤なしで入られなくなってしまいます。依存症です。頭をスッキリ覚醒させるのにカフェインの薬効を、憂さを晴らすのにアルコールの酩酊作用に依存すると、それが〔折り合い(妥協)〕のつもりでやって、やがて、知らぬうちに依存症へと陥る可能性が高い。 

一方、〈折り合い〉では依存症になることはない。〈折り合い〉にも上手くいかく場合、いかない場合があります。上手くいくと身体の体力は培われ「成長」という成果が生まれる。いかなければ、ひどくすると所謂「トラウマ」ということになって成長のための機会が失われるということになりますが、毒物との〔折り合い(妥協)〕のように、依存症になり、悪くすれば死に至るというようなことにはなりません。


心身は一体ですから、同様のことは心の問題についても言えます。

やがて依存症になり、悪くすると死に至ることになるもの。心の場合、身体で言う「依存症」には【隷属】という語を当てはめるのが適切だろうと思います。

【隷属】という負の効果をもつものは、これまた前回の文章で言うなら「雑味」です。典型的には他人に押しつけられる不愉快。端的に言うなら【悪意】です。

【悪意】とは〈折り合い〉がつかない。だから〔折り合い(妥協)〕をするしかない。貨幣経済社会で必須の貨幣を入手するためには、【悪意】に妥協して我慢をするといった方法しか対処法はありません。そして、残酷なことですが貨幣にも【悪意】にも、【隷属】をもたらす作用があります。

お金がなければ生きていけない。
お金が入手できる組織に所属していなければ生きていけない。

〔折り合い(妥協)〕を繰り返していると、やがて上のような強迫観念に支配されてしまうことになりかねないし、そうなるとすでに【隷属】です。


前回に触れた〔幸福〕追求の方法論は、〔折り合い(妥協)〕の方法です。「毒物」を上手く処理することによって、正負の効用のうちの「正」の効用を多く獲得する。「正」を多く獲得することができれば〔幸福〕になれるし、「負」が多くなると〔不幸〕になってしまう。

これだけのことなら、〔幸福〕追求は、たとえば日本国憲法に謳われているように、誰もに認められた権利だということでいいでしょう。ところが、悪いことにこれだけでは済まないところが「毒物」にはあります。

多くの人が〔幸福〕追求を求めるほどに「毒物」の依存性が強くなる傾向がある。

なぜ、そんなようなことになってしまうのかは、また順を追って話をしてみたいと思います。

感じるままに。