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The System Cracking Life

生命をクラックするシステム。

クラック(crack)とはコンピュータ用語で不正使用の意味。

生命を不正使用することで成立しているシステム。
すなわち資本主義です。


資本主義が生命を不正使用することが可能になるの要件が3つあります。

① 生命(人間)が、過去の生命力の発露の発露を未来へつなげたいと希望すること

この「希望」の端的な形が貨幣です。

② 未来が幻想から虚構へと変質すること

過去を記憶することで成長するヒトが未来に希望を託すのは自然なこと。同時にまた、言語能力に長けたヒトが未来に託した希望を言語化するのも自然な流れ。

希望の言語化が未来の言語化(虚構化)につながるのもまた、自然な流れなのかもしれません。けれど、それはオーバーアチーブ。虚構化された未来は、未来にではなく現在に組み込まれてしまうからです。

その結果、未来を虚構化することで成立しているシステム(資本主義)は、「いま、ここ」で生きている(人間を含む、人間以外の)生命を不正利用することで命脈を保つシステムになっています。


信用創造は未来を虚構化する手続きです。

『サピエンス全史』の第2章「虚構が協力を可能にした」では、フランスの自動車メーカーのプジョーを例にとって、虚構成立のあり方が活写されています。そして第16章「拡大するパイと資本主義というマジック」では、未来が虚構化されるモデルが提示されている。

 金融業者のサミュエル・グリーディ氏。
 建設業者のA・A・ストーン氏。
 料理人のジェイン・マクドーナッツ夫人。

以上、3名の登場人物で組み立てられている金融モデルです。

当初、3名で構成されている「社会」に存在した貨幣は100万ドルだったはずなのが、銀行という虚構を介することで200万ドルに拡大します。が、貨幣量は増えたからといって、「社会」に存在する富が増えるわけではない。貨幣に希望を託している人間は富が増えたと感じるけれど、それは錯覚でしかありません。

銀行と資金需要者の契約によって「社会」の総貨幣量は増加するが、そのことによって契約外の人間が所有している富の相対比率が低下してしまいます。「社会」に存在する富の絶対量は、富の尺度に過ぎないはずの貨幣の増加では増えはしないが、富の所有比率は変化します。

貨幣錯覚とは富の所有比率の変化に気がつかないことです。


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ここからは具体的なモデルで語ります。

グリーディ、ストーン、マクドーナッツの3名からなる「社会」にメンバーを追加します。第4のメンバー、マクケーク嬢はマクドーナッツ夫人の友人で1万ドルの預金を保有しています。マクドーナッツ夫人のベーカリーを経営の準備の時点から従業員として日給100ドルで働いているとします。

マクドーナッツ夫人とグリーディ氏の銀行の契約以前「社会」の総貨幣量が100万ドルでした。マクケーク嬢が加わったことで総貨幣量は101万ドルになりますが、1ドルは誤差と考えます。

第5のメンバーは、ストーン氏経営の建築会社従業員B・B・リバー氏です。彼も日給は100ドルだとします。

マクドーナッツ夫人と銀行の契約後、「社会」の総貨幣量は200万ドルになります。その結果、マクケーク嬢の預金およびマクケークとリバー両氏の日給の実質価値は半分になる。貨幣総量が100万が200万になっても富の量は変わらないのに、比率は100万:1万が200万:1に、100万:100が200万:100になる。

しかし、マクケーク嬢は気が付きません。というのも、気が付いていないのはマクケーク嬢だけではないからです。他の3名も、ベーカリー開業後に顧客となる「社会の(プラスアルファの)人々」も気が付きません。

(「プラスアルファの人々」が所有する貨幣の出所を考慮に入れないのは矛盾しますが、理解しやすさを優先して矛盾したまま話を進めます。)


以前、こちらのテキストで示したように、

実体経済が株式市場並の情報伝達速度であるなら、マクドーナッツ夫人と銀行の契約によって増加した貨幣の情報は直ちに社会全体に反映されます。仮にマクドーナッツ夫人のベーカリーが、当初、パン1個1ドルで販売予定だったとしても、「契約」によって貨幣総量が増加したなら2ドルになるのが順当というもの(「なる」と「する」は別問題ですが)。

が、情報は緩やかにしか届きませんから「社会の人々」は錯覚に陥ったまま。1ドルのパンを適正価格だと感じる人々は、マクドーナッツ夫人のベーカリーでパンを購入します。リバー氏も顧客の1人です。


ストーン氏が経営する建築業者はマクドーナッツ夫人からベーカリー経営の仕事を請け負ったことで業務量が増加します。ストーン氏の建築業者は、(実質は見せかけだけれど)虚構化され錯覚され「社会」に通用する100万ドルで資材等を購入しベーカリー建築に当たります。従業員のリバー氏の業務量も増えて、労働時間が倍になる。仮に5時間から10時間になったとましょう。日給は1ドルのままではストーン氏の建築業者は“ブラック”ということになりますが。

リバー氏は誠実な人柄で、勤める会社が忙しくなったことを歓迎します。業務量の増加に対応して生産性を上げる。従来ならば10時間要した仕事を8時間で済ますようになる。

ストーン氏もまた誠実な人柄です。リバー氏とともに会社の生産性を向上させ、リバー氏の生産性向上と追加業務を正当に評価、生産性向上に寄与した会社とリバー氏の割合を1:1だと判定し、寄与相当分と追加業務分のボーナスを支払います。

リバー氏は兼業農家でした。1日の労働時間10時間を農作業と勤めに半分割り当てていましたが、誠実な性格もあって労働時間のすべてを勤めに振り向けた。結果、それまで行っていた小麦の栽培と自己消費分のパン作りをする時間がなくなり、勤めで得られる現金収入でパンを購入するようになった(この時点ではまだマクドーナッツ夫人のベーカリーは建築中なのですが)。

リバー氏が兼業農家から専業の勤め人になったことで、マクドーナッツ夫人夫人のベーカリーはリバー氏という新たな顧客を得ます。そのためベーカリーの業務量が増える。マクドーナッツ夫人もマクケーク嬢も誠実な人柄で――と、以下同文ではないけれど、同型です。


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以上、「5名の社会」の追加モデルで示した(つもり)ことは、

① 富の総量を増加させるのは「契約」外の者も含めた社会全体
② 「社会」で暮らす人間同士の誠実さの伝達と貨幣量増加の情報伝達とは重なっている

①と②から言えるのは、

③ 一部の人間の「契約」による貨幣量増加で起きる富の分配比率の変化を元に戻していくのは、社会全体の誠実さ

④ 貨幣量増加(富の分配比率変化)はメカニカルであるのに対して、富の総量増加と分配比率の還元はヒューマニスティック。

⑤ メカニカルとヒューマニスティックの差異が資本主義が必然的に生む格差の原因


上の追加モデルで、あえて据え置いた要素があります。日給です。

従業員(労働者)の日給はその実質が半減したにも関わらず据え置きのまま。とはいえ、雇用者はボーナスを支払います。労働量が増加し、生産効率も上がったのに給料はそのままボーナスもなしならば、さすがに“ブラック”の指弾は免れないでしょうけれど、業務増加をボーナスという形で支払えば指弾は免れる可能性が高い。

正当に評価して支払うという経営者(マクドーナッツ夫人・ストーン氏)の行為はヒューマニスティックです。

ヒトという生き物は、ヒューマニスティックであることをもっとも高く評価する性向を持っている


ヒトの「正当」の評価基準は、分配比率の適性にあるのではなく、適性に評価しようとするヒューマニスティックな誠実さということです。分配比率が適性ではなくてもヒューマニスティックに誠実でさえあれば「正当」だと見なされる。

結果、何が起きるかというと、

メカニカルな分配比率の変化は常にヒューマニスティックな誠実さによる還元を上回る

という現象です。


この現象には端的な記述があります。

資本主義の残酷なルールrg

rは資本分配率。
gは労働分配率。
トマ・ピケティが

で示した「ファクト」です。

ピケティはこのファクト(事実)を経済の厳密な観測から導きだしていますが、なぜそうなるのかの機序の説明をしていません。

未来(無限)を虚構化したことでメカニカルに生じるのが資本分配率であり、労働分配率が人間のヒューマニティによるというのが当テキストの主張ですが、これは(ピケティが提示した事実への)仮説。

メカニカルな分配の変化とヒューマニスティックな分配の変化の間に差異が存在すること。この「差異」が誠実さとして現れる生命力(life)の不正使用(cracking)であるという仮説です。


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この仮説からさらに演繹をすると、次のような疑問が浮かび上がります。

メカニカルとヒューマニスティックの差異をなくすためには、ヒトは100パーセントの誠実さを獲得する必要がある。

では、

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ぼくには(資本主義以上に)残酷だと思えて仕方がありません。


“誠実”とは、言葉の印象は「善きもの」ではあるけれど、実体はもっと複雑なものです。

「誠実」の対義語は「打算」でしょうけれど、複雑さとしての「誠実」には打算も含まれます。むしろ打算がなければ誠実もありえないというのが、成長していく生命の性質です。

誠実さを成長させて行くには、打算がなくてはならない。打算なき世界には誠実への成長もない。成長なき誠実は誠実であっても、残酷な誠実でしかない。

誠実であろうとすることが〈誠実〉であるという動的な構造は、

「希望を手放したところにあるのが〈希望〉」だという構造と同型です。


虚構化された【希望】に埋め尽くされた世界には〈希望〉が成長していく余地ないということ。

世界の未来が本当に無限ならば〈希望〉が成長していく余地がなくなることはありません。けれど、現状の観察では無限であるとは思えなくなっています。地球環境は有限だから。

子どもはそのことを鋭く察知しているようですが、

子どもであるがゆえに100パーセントの誠実さが要求される残酷さにまではまだ気が付かないし、大人は大人で残酷さから目を逸らそうとして、自身に都合のよい「ファクト(事実)」に執着します。


背を向けたいファクトにも理由があるのですね。

もっともぼくの主張は上掲書とは正反対なのですが、そこはまた続きでということにします。

感じるままに。