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『組織の掟』

佐藤優さんの本を読み散らかしていますが、その中でもこれは面白いろかったです。

佐藤さんの本はどれも面白いですが、この本の面白さはちょっと趣がちがいます。お勉強をしたい方にとっては「為になる本」であることは変わらないのですけど、それ以上に、この本は、佐藤さん自身のための本なんです。本書は、

復讐を目的とした

本です。誰に? もちろん「組織」にです。
具体的には外務省でしょうね。


前半は「組織の掟」というカンバンにしたがって「一般法則」が記述されています。佐藤さんの経験と知性が紡ぎ出した佐藤優主観の一般法則ですね。

その「一般法則」はかなりの普遍性を持っているだろうと思われます。普遍性の高さは佐藤さんの知性の高さ。なので「為になる」勉強をしたい方は、この「一般法則」をアタマにいれておくといい。それなりに有効ではあろうと思います。


面白いのは後半部分です。「一般法則」を導いた佐藤さん自身の体験が、暴露と表現しても差しつかえないほど赤裸々に綴られています。


組織は自己保存の本能を持つ。
人間が作った人工のものであるにも関わらず。

いえ、人間がつくり人間がその中で働いているからこそ、
人間の本能が組織の方へと乗り移るんでしょう。


例えが飛躍しますが、凍傷という傷害が見舞われることがあります。低温下の環境でいると、皮膚と皮下組織が破壊されてしまう。
大抵は身体の末端の手足がやられます。

興味深いことに身体にはそういう機能が備わっているのだといいます。生命の危機の際には、切り捨てても生命維持が可能な部分は切り捨てるという選択を取ることが出来るようになっている。

頭部や胴体部の体温が奪われると生命維持に支障をきたしてしまうけれども、手足なら生命そのものは維持できる。なので低温の環境では、身体はわざと手足への血流の量を少なくしてしまう。

生命の知恵ですね。

同様のことが組織にも起きます。
というより、同様のことが常に起こっているのが組織です。

組織には目的があり、その目的を達成するためには末端を切り捨てなければならないような環境に敢えて突入することを厭いません。健全な組織ほど、そのようなリスクテイクをする。

リスクテイクをしなくなると不健全になるのは、個々の身体も組織も同じです。


ただ組織と個々の身体とが決定的に違うのは、身体の手足は意志を持たないけれども、組織の手足は意志を持った個々の人間だという点。

どのように大義名分があろうとも、切り捨てられた人間は怨みを抱えることになります。これはヒトという生き物の本能だと言っていい。

ヒトは根源的に社会的な生き物なので、反社会的に扱われてしまうことをスルーできないんです。


広く知られていることですが、佐藤優さんは組織に切り捨てられてしまった御仁です。その人が機会を得て、合法的復讐を成し遂げたのがこの『組織の掟』という本です。

もっとも、佐藤さんを切り捨てた事件には触れられていません。それ以前の、切り捨てられそうになったけれどなんとか切り抜けた事件未満の出来事が暴露されています。これでも十分、組織への復讐になっているだろうと思います。



さて、余談。

それにしても佐藤さんは幸運な人だと思います。どのように幸運かというと、組織人だった人間が組織に合法的に復讐を成し遂げる機会に恵まれることは、まずないからです。ほとんどの人が復讐を遂げられず、知らずのうちに代償行為に溺れてしまいます。


論語です。

 或曰、以徳報怨、何如、子曰、何以報徳、以直報怨、以徳報徳。

或(あ)るひとの曰わく、徳を以(もっ)て怨(うら)みに報いば、何如(いかん)。子曰わく、何を以てか徳に報いん。を以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ。

ある人が孔子に問う。
怨みに報いるのに、徳をもってするのはどうか、と。

孔子は答える。
(怨みに徳をもって報いてしまったら)何を持って徳に報いるのか。
怨みには「直」で報い、徳には徳で報いるのがよかろう。


問題は「直」です。
「直」は“正直”と解されることが多いです。

でも、「直」と「正直」では意味がかなり違います。
「直」はstraight 。「正直」はhonesty 。
意味が違います。

それにそもそも、怨みに正直≒誠実を持って報いるなんていうは、ヒトの本能をねじ曲げた行為です。残念ながら、そんなふうにヒトはできていません。孔子ともあろう方が、アマタデッカチに曲がった人間理解をしていたとは思いません。

では、「直」とは何か。文字通りでいいと思います。

「怨みに対して直に報いる」

こう書くだけで意味が通じますよね。
そう、仕返し。復讐です。
まさに、佐藤優さんがとった行動です。


孔子が薦めるからには「以直報怨」は君子の行い、つまり立派な行動のなのでしょう。一般的な理解では、仕返しや復讐やよくないことだとされていますが、孔子に言わせれば健全な行いなんですね。

(孔子は人間の理想像を君子と呼びますが、これは健全な人の意。
 つまり、孔子的に立派とは健全なこと。
 一般に伝わるニュアンスとは違うので、ご留意を。)

孔子は別の場所で、こんなことも言っています。

  惟仁者能好人、 能惡人。

「仁者」とは立派な人のことですが、なのに「能惡人」。
健全な人だから、能く人を悪むでいいんです。
人間を憎まないのが立派(健全)な人の条件ではない。
その条件は「直」、言い換えれば「不遷怒」です。

 哀公問、弟子孰為好学。
 孔子対曰、有顔回者。好学、不遷怒、不弐過。
 不幸短命死矣。今也則亡。未聞好学者也。

哀公が弟子のなかで誰が学を好むのかと孔子は問われて、
早死にしてしまった顔回以外には知らない、と答えた。
その顔回は、学を好んで怒りを(他人に)転嫁したりせず、過ちを繰り返すことはなかった。

 「好学」=「不遷怒」=「不弐過」

だということなんだろうと思います。
それくらい「不遷怒」=「直」は難しい。


そういう難しいことを佐藤優さんは本書でやってのけた。
面白いです。
佐藤さんのようにすでに十分に報いられていると傍からは思われるような人物でも、まだ怨みはかかえているだなぁ~と。

そして、その「怨み」を「直」で報いた。
その意志は当然あったのだろうけれど、訪れた幸運を逃さなかったという印象を持ちます。そのことは「前書き」に表われています。


多くの人は「直」ができません。
その意志も能力も機会もない。
なので「遷怒」をやる。
現在の日本では、ネットという「公衆便所」があるので、そこへ「遷怒」したりする。


こちらの記事に興味深い指摘があります。

「炎上」の研究
  〜ネットが生み出した名もなき”風紀委員”たちの正体

「ネット上では暴言を書き連ねているのに、実際に会うと一流企業のそれなりの地位にいるサラリーマンなんです。」

すなわち「組織の掟」に縛れている人。
そういう人たちが「以遷報怨」な振る舞いを行って、ネットを炎上させている――。

実に人間の本性に敵った話だと思います。
同時に、まだネット炎上くらいで事が済むのだから、平和なんだと。


...当テキストの下書きにしている間に、ダッカで事件が起きてしまいました。
これまた「以遷報怨」、怒りを(他者に)遷すことで報いるです。
「価値観の違い」などというものは、怒りを遷してよいという許可証に過ぎません。

いくら許可証があっても、怒りがなければ報いもないし、怒りがあって「直」ができなければ、いずれだれかが許可証を発行してしまいます。そうしないと、社会は秩序を維持することできません。


罪なき報いに遭遇された方々のご冥福をお祈りします。


感じるままに。