「優しい経済」という言葉から

久々に「お金の話」をしてみたいと思います。

タイムラインの定期巡回をしていると”優しい経済”という言葉に出逢いました。

自分の好きなことを突き詰めれば、それが評価され、価値になり、ほかの誰かが生み出した価値と交換することで循環する。

Voicyのパーソナリティー あやにーさん(@ayanie_jp)はいつもこれを優しい経済と呼んでいます。

”優しい経済”という言葉が想い起こさせるところは、ぼくの関心のど真ん中なのです。


先のテキストで、エーリヒ・フロムの『愛するということ』のなかから言”確信”と”いう言葉を引っ張り出して、”確証”という言葉と対比をさせてみました。

「私は私だ」といったようなことは、”確信”はできても、”確証”は提供することができません。

「確信」は主観的な世界に属し、「確証」は客観的な世界に属します。


主観/客観という対比から、綱渡鳥@目指せ学芸員2.0さんのテキストの言葉をみてみると、

自分の好きなことを突き詰めれば ⇒ 主観
それが評価され ⇒ 主観
価値になり ⇒ 主観/客観
ほかの誰かが生み出した価値と ⇒ 主観/客観
交換することで循環する ⇒ 客観

ということになるでしょうか。

上の文が「優しい経済」を言い表しているという印象を持つのは、主観と客観とが入れ替わるポイントが一般的な「優しくない経済」よりも後にズレていることに因ると考えます。

「自分の好きなこと」は、どう考えても主観の世界です。一般的な「優しくない経済」の場合、次の「評価」で主観が客観へと変換されます。

近代経済学なるものは、「評価」が客観的になされるという前提の元に成立しています。需要(好きなこと)と生産(必ずしも好きなこととは限らない)とが、量と価格において均衡する点が「評価」だとされる。すなわちマーケット・メカニズムです。

そして、マーケット・メカニズムによって(客観的に)決定された価格が「価値」になり、価値は客観的であるがゆえに交換が可能になる。

多くの啓蒙書はそうしたシステムが機能している社会を前提に、「生産」を「(必ずしも)好きではないこと」から「好きなこと」へと、自身を改造することを薦めます。改造すなわち啓蒙ですが、啓蒙はさほど優しいとは言いがたい。


それが、主観から客観への転換ポイントがズレると、とたんに優しく感じられるから不思議です。綱渡鳥@目指せ学芸員2.0さんが示した文脈においては、主客の変換は「価値になる」時点で行われるように感じられます。

実例は、noteであるならば、「スキ」がそうです。他のクリエーターの作品に「スキ」をつけるという行為は「評価」ですが、マーケットメカニズムなどとは無縁の、ほぼ純粋に評価する者の主観です。

同時に「スキ」は、受け手にとっては「価値」になります。多くの「スキ」をもらえた方が「価値」は高い――とは厳密には言えないのですが、そのように思う傾向は確かにぼくたちの中に存在します。

とはいえ、「スキ」はいくらついても交換の手段にはならない。それはシステムの特性です。


ところがこれが「投げ銭」になると事態は一変します。

「評価」が主観的なところに留まっているうちは、それがたとえ「壱万円に値する」という評価者の思いを込めた「スキ」であったとしても、ひとつの「スキ」としてして(客観的には)評価はされません。「壱万円に値する」と思ったならば、壱万円の投げ銭をしないことには主観が客観に変化することはない。

これもまたシステムの特性です。「スキ」の場合はnoteというシステム(プラットフォーム)に限定された特性でしたが、「投げ銭」の場合は貨幣経済というシステムの特性。貨幣にはだれからも交換価値を認めれているので、評価者が「投げ銭」をするという行為によって、個人的な主観が(マーケットメカニズムのような)システマチックな【評価】を経由することなくダイレクトに客観へと転換されます。

個人的な主観が主観のままで客観へとダイレクト変換されること。ここに人間は〈優しさ〉を感じるというわけです。人間という生き物がそのようにできているということなんだと思います。



では、この〈優しさ〉はどこまでどこまで有効なのか。こうした〈優しさ〉を基準とした経済圏ができ、常に人間が行動することができたなら、どれほど〈しあわせ〉な社会ができあがるだろうか――。

次回に持ち越すことにします。

感じるままに。