野糞のススメ

なんらの比喩もありません。文字どおり。

登山の用語では、“雉撃ち”とか“花摘み”とかいう、要するに排便です。排便を屋外でなさりやがる行為、もしくはその結果物が野糞。


この場合、“ススメ”とあるので行為の方です。

是非とも、というわけではないけど、ちょっと頭の片隅に置いておいてもらって、チャンスがあれば....(笑)


この話題を思い浮かぶきっかけになったnoteがあります。

飲尿療法のススメです。

いかにもドグ子さんらしいと思いましたが、“ドグ子さんらしい”ということはつまり、多くの人がそのまま真似してしまうと危ないということでもある...(スミマセン、ドグ子さん)

ま、ほとんどの人は真似しないでしょうが ^^;


何かが違うと思うと言葉にしなくてはいられないのが、腹黒いぼくの習癖です。以下、習癖のままに進むことにします。


季節性感情障害が冬の日本海側で発生しやすいというのは、科学的に観測されている事実です。ぼくも新潟(の離島)で冬を2シーズン過ごした経験がありますが、その話は周囲から良く聞いたし、実際にそうなっている人もいたし、連日連日曇天が続くと気分が塞ぎ込んでいくという現象は、自身の体感としても若干ある。

ただ、その感触は、一般のウツとは違うと思う。というのも、感情を抑圧する原因が違うからです。

症状は似ていても、原因は違うなら対処は違うはず。ことに、精神疾患の領域は、症状だけをみて判断してはいけない。原因を探り当て、心の深層に潜んでいる【闇】に光を当てることが治療になる。

つまり、原因が自然現象か社会現象かで、対処が違うはず。

ドグ子さんは主に自然現象の方ですが、大抵の場合は社会現象でしょう。


思うにSADは、標準より元気すぎるところに原因があるのではないか。発散されるべきエネルギーが多過ぎる。冬になると、発散がなおさらうまく行かなくなる。

冬はエネルギーを発散する機会が少ないから、ヒトも息を潜めるようになる。冬にエネルギーの発散を控え蓄積に回すのは、他の生命体がそうであるように、ヒトもまたそうです。

ここには社会現象も絡んできます。ヒトの集団(社会)はモラル(道徳)という訳のわからないもの(「空気」?)を形成しますが、冬という時期の大多数の人間の傾向(エネルギー蓄積)に対応して、集団の傾向もそのようになり、それがある種のモラルになります。

こうなると、冬でもエネルギー発散を止められないタイプの、元気が個性の人は辛くなります。

だからつまり、SADは元気な人がなりやすい。ドグ子さんはnoteで拝見する限りでもエネルギー満々だし、ぼくが知っている人も以前SADになったことがあるなんてのが信じられないくらいに元気な人がいた。概して、SADに人は元気な人という印象があります。


飲尿という行為は、過剰なエネルギー消費です。

なんとならば、尿は毒だからです。排泄物≒毒。

一度排泄したのものを、もう一度身体を通過させるということは、それだけ余分に身体エネルギーを消費しなければならないということ。これは、エネルギーが余っていて発散できずにいる人には、適切な治療法といえる。


ちなみにいうと、毒をわざわざ身体に取り込むということをヒトはする。たとえば、コーヒーです。コーヒーが流行するのはエネルギー過剰か、もしくはエネルギーの発散場所が失われているか...、ぼくは一般的な傾向は後者だと思っていますが。


適切になされるべきエネルギーの発散がうまく行かず、エネルギーは鬱積して鬱になるのは、季節性感情障害(SAD)でも、社会不安障害(SAD)でも同じだと思います。ただ、なりやすい傾向は違うように思う。前者はエネルギー過剰傾向、後者はエネルギー過少傾向。

世の中には、夏が嫌というか居心地が悪い人がぼちぼちいます。過剰であろうが過少であろうが、ヒトにはエネルギー量の増減の波があって、夏は大きくなる傾向がある。

モラルによって抑圧されている人間にとっては、季節は基本、関係がありません。文明化が進んだ都会ではなおのこと。そうだとすると、エネルギーの基本レベルが低いヒトは、夏になってエネルギー量が増大すると、抑圧が感じられるということが起きてくる。冬の間は抑圧を感じるほどのエネルギーがないから、わりと平気でいられる。

こうしたタイプのエネルギー過少傾向のヒトが、飲尿といったようなエネルギー過剰消費をすることは、、、、アブナイですよね。少ないながらもこじれているエネルギーが、どーんと落ちこむと、アチラのほうへ歩み始めるということもありえなくはない。

もっとも、だからこそ、多くの人は飲尿はしないだろうと予想ができるのですけどね。

このレベルでするしないは、根拠がわからない「勘」とでもいうべきものですが、そういうものは人間にだって備わっています。

ドグ子さんはそうした「勘」が異様発達――というよりも、阻害されることなく成長しているとお見受けしています。その観察と、季節性感情障害があったということとは、整合します。だから「勘」に導かれて飲尿といったようなこともできたのだろうと。

「勘」の発達を疎外するのは、モラル、道徳。平たくいうと、「当たり前」という言葉で自身の中に内在化してしまった、情動を抑圧してしまう(反)情動です。

こちらのnoteは、その「勘」が働き始めたということが記されているものだと解釈することができます。

つねに「勘」が働き、いつも自分が欲しかったことをしているドグ子さんには、“やっと気づいた”という感覚は、(エラソーに言ってしまいますが)わからないだろうと思います。これは、何らかの原因で目が見えなかった人がその原因が取り除かれて目が見えるようになったというようなもので、もともと目が見える人に、「目が見えるようになった」ということ自体わかりようがないのと同じことです。


重要なのは、「何らかの原因」がわからないことです。

わからないのには理由があって、これは実に単純な理由です。「記憶にない」から。身体に刻まれている記憶が、脳には残っていない。記憶は脳が感知しますから、脳に残っていなければ「記憶はない」になってしまう。

もう少し科学風(的とはいえません)にいえば、脳内の記憶回路の生成中に組み込まれた、回路の一部になっている記憶です。「モラル(当たり前)」が、記憶形成の回路の中に組み込まれている。

記憶形成の回路と言語形成の回路はおそらく同一で、作用のあらわれ方――言語・記憶回路の作用を、脳内の別々の回路が認識する――の違いでしょう。ヒトは経験を言語化して構築することで人間となりますから、モラルが言語形成回路――端的に言えば人間化回路――に組み込まれているということは、「人間である」ということと「ヒトである」ということとが順接でつながっていない、「ヒト」と「人間」の狭間に「モラル」という余計な障害物が挟まっているという状態です。


「ヒト」と「人間」とが順接でつながっている―障害物がない――ときに生まれてくる洞察、これが「勘」です。“勘”という根拠を示すことができない言葉になってしまうのは、感覚知覚と経験構成とが何らの障碍もなく順調にいっているから。障害がないから、観察しようない。

人間の脳の作用の研究は、脳に損傷を受けた人からでないとわからなかったのと同じ理屈です。

ということは、逆に、障害物があるということは観察可能だということでもある。もう少し言うと、観察という行為そのものが障害物があってこそ為し得る行為だということ。さらにいえば、観察という行為を突き詰めると、「ヒト」と「人間」との間に挟まり、「ヒト」と「人間」とを【逆接】にしてしまう障害物の観察になっていく。

こうした観察技法の一つが禅と呼ばれているものでしょう。ただ、禅から派生した「マインドフルネス」は、障害物の観察は省略して観察の副産物のみを得ようとする都合のいい試み――というのは、ぼくの観察ですが。


厄介なのは、この【逆接】の登攀です。

それは、記憶になかったこと、もしかすると記憶したくなかったことを、掘り起こし、再経験し、記憶回路に織り込まれてしまった【モラル】を排除しつつ再構築することだから。

厄介だけれど、手掛かりがないわけではない。そうした手掛かりも、言葉として残っています。

【モラル】を排除して再構築する行為に付けられた名前が、「空」です。「空」というのは、経験構築に介入してくる【モラル】介入を徹底的に排して、純粋に知覚(因果)だけを見ていこうとする行為。なので、結果としては科学に似ています。

(“結果としては”というのは、科学もそれ自体「モラル」だからです。)


( ↓ 参考までに、興味があるなら)


さてさて、やっとタイトルの“野糞”にやってまいりました。野糞オススメの理由を述べます。

それは、「アンモラル」だからです。


トイレが存在しない、そのようなものを作ってしまうことが反道徳的行為(環境破壊)になってしまうような場所で、排泄行為をすることはモラルでもアンモラルでもない。ただただ、自然な生理であるに過ぎません。

でも、「人間」はそうは感じない。
「ヒト」なら、ただただ自然ですが、経験構成回路の中に【モラル】が組み込まれている「人間」には、そうは感じられません。

だから、“雉撃ち”や“花摘み”という。
これは単にその姿勢が似ているから、その姿勢を指す言葉を転用した、パロっただけに過ぎません。パロディにすることで「本当のこと」を言わないで済ませようとする心理が働いている。この心理の裏にあるのは【モラル】です。

とはいえ、そうした「モラル」が働くことは、「人間」としては自然なことです。そうした「モラル」がないことには、「人間」になれないのだから。

そう考えれば、「モラル」の完全否定はできませんし、する必要もない。

大切なことは、する必要があるときにだけ、すればよい

これです。実に単純。
なのに、その単純なことができなくなっている。なぜか。
経験構築回路の中に「モラル」が組み込まれているからです。組み込まれているから、不必要であるはずのときにも自然に作動してしまう。

この【自然】を体験するのに適切な方法が、野糞

冗談で言っているのではありません。
大真面目です。( ・`ω・´)



「さあ、これから野糞をしに行きましょう!」

この呼びかけのおかしさ。
この呼びかけをおかしいと感じることのおかしさ。

この、高次の「おかしさ」を自身の身体で体験することは、自身の中に組み込まれた【モラル】を体験することにもなります。

それに、野糞なら、社会に迷惑をかけずに済む。
他にも【モラル】を体験する方法はあります。いくらでもあるけれど、そうした方法のほとんどは反社会的な行為になってしまいます。窃盗でも、なんなら殺人でも、アンモラルというだけなら、それでもいい。が、いくらなんでもヤバすぎる。

木を伐るというのも手です(笑)


高尚な、芸術と言われるようなやり方なら――

「花は野にあるように」といって、咲いたアサガオを全部切っぱらって、一輪だけ生けるというのもいいかもしれない。

狭苦しい教会の中に、生の躍動を閉じこめるというのもあり。

(冒頭の「祈り(レチタティーボ)」は、続く〈生の躍動〉を型に嵌める役割を果たしています。)

芸術は高尚で、社会秩序に混乱をもたらさないけれど、その分、そこから登るのは「逆層」登攀になる。

野糞なら、秩序紊乱をきたさない上に、「順層」です。

排泄行為は〈生きること〉そのものだから



野糞が「順層」なのは、これまた単純で、数の問題。

地震などの自然災害でインフラが崩壊すると、当然に野糞を強いられます。トイレとして機能していないトイレで用を足すのは、野糞と何ら変わりません。いえ、野糞よりももっとアンモラルな行為です。

でも、大方の人は、それでもトイレに行きますよね?

水が流れない水洗便所で用を足すのはアンモラルだ!

――そんな声をあげようものなら、状況によっては袋だたきにされかねません。なんとなく想像できると思いますが。

これまた回路に組み込まれた【モラル】の作動ですが、こうした【モラル】が生成されるのにも理由があります。


定住生活をしなかった狩猟採集民には、そうした【モラル】はありません。生活スタイル上、単に必要なかったから。定住が始まると、そうした【モラル】が形成される必要が生まれてくる。この必要性は、数の問題。物理的、生物学的特性の問題です。

この必要性を「技術」が解決して、現在あるような社会が成立している。


ここでいう「技術」とは、科学(的)技術です。
技術にはもうひとつ、社会(的)技術もあって、テキスト(書き言葉)、貨幣もそうした社会技術。懲罰もそう。テキストと貨幣と懲罰を有効なら占めるために生まれたるのが権威(権力)です。誰かが暴力を振るってそれらに強制力を持たせなければならなくなる。


糞戸(くそへ) - 『古事記』『日本書紀』にはスサノオが高天原においてアマテラスが大嘗祭(または新嘗祭)を斎行する神殿に脱糞したのが起源であると記していることから、これも神事に際して祭場を糞などの汚物で汚すこととされるが、また「くそと」と読み、「と」は祝詞(のりと)の「と」と同じく呪的行為を指すとして、本来は肥料としての糞尿に呪いをかけて作物に害を与える行為であるとの説もある。

日本の社会が縄文から弥生に移行するとき、“天津罪”というものができました。天津罪は国津罪よりも罪が重かったらしい。国津罪の方がより根源的に思えるのもかかわらず(たとえば、ユダヤの十戒のように)。

水田という生産手段を妨害するもの。

畑作なら、それほど嫌悪感はなかったかもしれません。事実、畑作主体の地域(中国北部や欧州)は、伝統的に不潔です。


【モラル】というものは、風土や、風土に即した生産手段維持の必要上から産み出された(社会的)技術から生まれた「モラル」が、内面化したもの。

なぜそうした「モラル」が生じたのかは、もはや訳がわからなくなっている。けれど、モラルとしての機能は未だ残っている。訳がわからず、それがルールだからと、言語・経験回路構築中の子どもを教育してしまうと、「モラル」が内面化して【モラル】と化し、伝統的・文化的に継承されていく。


子どもは文明の【シワヨセ】を喰らいながら、生きざるをえなくなっている。


現代社会の最大の【モラル】は、いうまでもなく貨幣です。

労働と報酬の「セット感覚」ですが、これまた【モラル】。

資本主義という【システム】は、この【モラル】を逆用して人々に「欲望」を強いることで作動しています。

「欲望」が「欲求」を抑圧し、子は親に抑圧され、抑圧を内面化させて〈ヒト〉は【人間】に、〈子ども〉は【大人】になっていく。

そして【大人】ほど、自分の【モラル】を見ようとしません。

卑怯なことだとぼくは思っています。


正々堂々と、正々堂々とできる場所で、野糞をしましょうww

感じるままに。