〈優しい経済〉を思い浮かべる


上の記事で知りましたが『地球防衛家のヒトビト』なる漫画があるんですね。

小学校の教室と思しき場面で、生徒が「なぜジャーナリストはわざわざ危険な場所にいくんですか?」と質問したとき、教師が「誰かが危険な場所で何が起こっているか、世界に知らせないといけないだろ」と教え、「みんなは危険な場所で何が起こっているか知りたい?」と聞くと、だれの手も上がらなかった。

しかし、「じゃあ逆に、君たちが危険な場所で暮らしているとしたら、世界にそのことを知ってもらいたい人?」と聞くと、全員の手が上がった。

人間とはかくも自分中心で自分勝手なものだが、これは真実の姿をついている。

「知る権利」が大切だという議論には、もとより異論はありません。ないけれど、じゃあ、知りたいかと言われると話は違ってきてしまうのは正直なところ。。。

遠い場所の自分とは無関係に思える出来事には、自然に関心を寄せるということができません。対外的な得点を狙って関心があるフリをするか。あるいは、ひねくれた関心の持ち方になるか。

「安田さんバッシングと自己責任論」はひねくれた関心のあり方が生みだした、いうなれば空論でしょう。

空論を批判し、大切な「知る権利」を守るために――大義名分としては立派だけど、やっぱり【勉強】なんですよね、そういうのって。押しつけられた感がどうしてもある。


といって、いざ知りたくなったときに、知る必要がうまれたときに「知る権利」はないと困る。では、「大義名分」とは、いざという時のための保険のようなもの? ――ちょっと違いますよね。保険は間違いではないけれど、的の真ん中を射貫いているかというと、ちょっと違う。


ここで思い出すのは「優しい経済」です。

自分の好きなことを突き詰めれば、それが評価され、価値になり、ほかの誰かが生み出した価値と交換することで循環する。

誰かが好きなことを突き詰め、誰かが評価をすれば、みんなの価値になり、他の誰かが生みだした価値と交換することで循環する。

循環が巡っていれば、ぼくたちはぼくたち自身の関心と必要に応じて、いつでも「知る権利」を行使することができる。保険などと言わなくても。


思うに、ジャーナリズムに限らず、科学研究だって〈優しい経済〉が巡るなら、その方がきっといい。

ポール・マッカートニーの訴えよりも切実だとは思うけど、そんなに脅されてもなぁ、、、とも思います。

といって現状、〈優しい経済〉で上手く回るかというと、そうはいきません。〈優しい経済〉だけでは、循環が立ちゆかない。それでは「知る権利」は守られないし、科学も危機に直面してしまう。


「優しい経済」は、評価経済です。
noteでまわっているのも評価経済。

では、評価経済は優しい経済かというと、そうとは限らない。逆も真なりではない。評価経済の中には【優しくない経済】もあるし、【優しくない経済】がないとnoteだって回らない。

【優しくない】方の評価経済は、評価をされるには【勉強】が大切だと説きます。そして【評価される勉強】は有料だと主張します――これはこれで首尾一貫しているけれど、そこで回らないところには「大義名分」が必要になってくる――【評価される勉強】というのがすでに「大義名分」ですけれど。


〈優しい〉方の評価経済を拡げるには、評価する「誰か」に課せられている足枷を解かれないと難しい。「大義名分」などなくても、「スキ」をするように、自分に素直に評価がすることができる環境。

そうした環境が整ってくれば、ジャーナリストが生命を賭して戦場に赴くといったようなことはなくなって行くのではないかと、希望的観測を抱いていたりします。


感じるままに。