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魂とはなにか

前回に引き続き、かねきょさんのnoteを参照させていただきます。

前回は「痴漢に安全ピン」というとっかかりから論語の「直」について語ったわけですが、今回も論語です。論語を経由して〈魂〉と呼ばれる現象について語ってみたい。

そう、魂は現象です。本能という言葉と同様に。
DNAの存在が明らかになってから、本能はある種の存在と考えられるようになっていますが、本能という言葉はDNAの存在が明らかになる以前からあります。つまり、DNAが知られなくても本能は知られていた。DNAに紐付けされる以前の本能は、生物が生まれながらにして備えている性質(の表現)として捉えられていました。

魂も、いつから存在だと考えられるようになっています。存在だと考えるから、重さを測ってみようという試みが生まれたりする。

魂と呼ぶべき存在は21グラムの重さをもって実際に物理世界に存在する可能性は否定できませんが、言葉のもともとの意味が現象だとするならば、重さを測ろうとする試みはちょっと的を外している。本能の重さを測ろうとする人はいないでしょうから。


さて、論語です。

かねきょさんがマンガで表現したことは、時間を遡り空間を超えて、論語が言い表そうにしたことと一致します。それは、人間という存在のあり方。人間という現象の特徴です。

子曰
學而時習之 不亦説乎
有朋自遠方來 不亦樂乎
人不知而不慍 不亦君子乎

論語の冒頭、学而第一です。
冒頭に掲げられるということは、非常に大切な特徴だと位置づけられているということ。

学而第一の倫理経典としての解釈はネットで調べればカンタンに出てきます。それらは忘れるか、知らなければ無視してください。

「學」の解釈は、現代のそれと同じです。言葉を学ぶことです。言葉を知らなければ本を読むことはできません。

「習」は現代の解釈とはことなります。言葉を学び、本を読んででいると、時に「あ...」ということが起きる。この「あ...」が「習」。

「習」が起きると、何かが起きます。その「何か」を論語は、「友が遠方から訪ねてきたような楽しさ」だと表現しました。かねきょさんの表現ではまず「補助線」。

表現は違います。言葉のチョイスも違えば、表現手段(漢字 vs マンガ)も違う。でもなぜか、不思議なことに、「あ...」と同じだとわかります。

論語の「有朋自遠方來」と「補助線」が同じだとわかるのが、論語が表現しているところの「習」。言葉や絵や音楽でもいい、表現を学び、それを自らのものとすることが「習」の意味するところです。


そして、「習」が起きれば何が起きるのか? 
かねきょさんの表現でいうならば「魂の救済」が起きる。

私の友達になり相談相手となり
私自身を見つめる私自身の視線となって
私を助けてくれるのだ

「補助線」はイコール「有朋自遠方來」であり、「有朋自遠方來」はイコール上のモノローグです。表現は異なるけれど、同じ。


別の補助線を引きます。ヘレン・ケラーです。

ヘレン・ケラーの奇跡(と呼ばれる現象)もまた、同じ。二重の意味で同じです。「補助線」「有朋自遠方來」「モノローグ」が同じであるのと同じように、ヘレンは左右の手の感覚されていた異なる感触が同じだと「発見」しました。

「発見」では言葉が足りない。
「創造」というのがふさわしい。

なぜ、そんな創造が起きるのかはわかりません。
不思議。ワンダーです。

「補助線」「有朋自遠方來」「モノローグ」と「ヘレンの奇跡」は同じ。いずれも等しく不思議な現象です。

この不思議な現象を指し示す言葉が〈魂〉
魂は、魂が魂として現象すると自ずから救済されるという性質をもちます。

ヘレンは不幸なことに、目が見えず耳が聞こえなかった。言葉になりえる感覚は触覚しか残されていなかったけれど、それでも言葉を創造することができた。「言葉の創造」という現象は、「魂の作動」と言い換えることができます。さらに「魂の作動」とは〈学習〉と言い換えることができる。


ヒトは生きるために〈学習〉をします。まったく無力な赤ん坊としてこの世界に生まれ落ちるヒトは、もし条件が許すならば、十月十日よりもっと長く母親の体内に留まって、もっとしっかりと身体を発達させてから誕生したほうが生存には有利だったはず。

けれど、そのような条件は成立しなかった。母体が負担に耐えられないからです。

ヒトは脳を発達させ、大きな頭蓋をもつという生存戦略を採用しました。その結果、二足歩行になり器用な手先を獲得したけれど、反面、生誕に際して母体に大きな負担を及ぼすようになってしまいました。無力な赤ん坊として誕生するという性質は、ヒトという種のギリギリの選択だった。

けれど、そのおかげでヒトは〈学習〉という大きな特徴を獲得することにもなりました。〈学習〉は、ヒトという生命のあり方そのものであり、それはヒトを含む生命のあり方そのものを指し示す言葉である〈魂〉でもある。

感覚を発達させるのは動物の全般の特徴。生存に欠かせない。
ヒトの場合、それに加えて感覚を内外に合成し、身体性を拡張するという能力を備えました。生存のために社会を営むという戦略を採用したがゆえに。

拡張能力があるから、ヒトは道具を使うことができる。その扱いに習熟した道具は、身体の延長です。言葉もまた同じ。絵も同じ。音楽もそう。これらの表現手段に習熟するということは、心身の内への拡張です。

内面に向かって拡張しうるから、「精神」という言葉も生まれる。精神は魂と近似的な響きをもっています。


論語学而第一は、まだもう一文残っています。

「人不知而不慍 不亦君子乎」

君子とは〈魂〉の作動原理を熟知している人物のことを指すと解釈できます。つまり〈不思議〉を熟知している。

〈不思議〉を識っていれば、〈不思議〉を識らない人に対してイライラすることがない。それが「人不知而不慍」の解釈です。「慍」はイライラと考えればいい。

そりゃそうです。〈不思議〉なんだから、イライラしてみたところで始まるものではない。

「學」は、イライラしていてもできます。けれど、「習」はイライラによって妨げられてしまう。「慍」を抱えている大人は、子どもが「習」を自ら起こすことを待つことができません。「慍」は「習」を望んで「學」を強制することになってしまう。

すると子どもは、「學」には長ける一方で「習」を封印することになる。イライラした大人の要望に応えるために、そのように適応することになってしまいます。無力であるために、そうせざるをえない。

この無力の感触が自己嫌悪というものです。痴漢に遭った女性が自己嫌悪を感じるのと同じ原理が作動します。これまた〈魂〉というものあり方。


君子の任務は「安全基地」を提供することです。安全基地のなかでこそ、人間は「習」を為すことができる。親なら子に、大人なら子どもに、君主であるなら民衆に、安全基地を提供することが君子たる者の務め。

君子であるには「仁」でなければなりませんが、仁は安定型愛着スタイルです。安定型の愛着とは、安全基地の中で育まる愛着が自律的に機能している状態のこと。自律的に機能しているからこそ安全基地を提供できるようになります。

だから論語には「選択」という概念がありません。言い換えれば迷いがない。「仁」であれば「直」であり、その身体は周囲に対して安全基地を構築するように迷いなく振る舞う。安全基地を脅かす攻撃に対しても、迷うことなく適切な反撃に出ることができる。いちいち倫理といったようなものを参照する必要もない。

現代的な言い方ならば、倫理あるいは道徳とは、外発的動機づけです。環境からサンクションによって【教育】が行われ、倫理を理解し、理性を作動させて適切な行動を選択するという。こうした振る舞いは社会適応的であると同時に、魂抑圧的でもある。

〈魂〉という性質が滞りなく作動すれば、秩序も自生的に生成されるであろうと、いうなれば性善説に立つ。それは、愛をもって律法を廃し、同時に成就させることができると説いた「人の子」イエスと、表現は異なるけれども、同じ視点に立つもの。内発的動機づけで、十分に秩序が成立しえると考えた。

魂救済の触媒たらんとしたのがイエスであるならば、魂救済の国家を建設しようとするのがもともとの儒の思想――どちらも、【倫理】と化して反って魂を抑圧するようになってしまうのですが。

内発的動機づけだけでは、大きな社会の秩序は維持できないという残念な事実がここにあります。

感じるままに。