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人間という病

ハラスメントは本当に大変な問題です。

大袈裟に聞こえるでしょうけど、人類が滅ぶとしたらハラスメントが原因になるだろうと僕は思っています。直接的には表面的には、たとえば核戦争だとか、そういった現象があげられることになるでしょうけれど、そうした人類が自らを滅ぼすような戦争を起こす原因は、まず間違いなくハラスメントです。僕はそう思っています。

この考えは、タイトル画像の本の著者安冨歩さんの受け売りなんですけど、自分で考えても、やはりそう思う。

文明とともにハラスメントは発生し、ハラスメントを隠蔽する形で文明は発達してきた。文明が発達したのはハラスメントのおかげです。だから、人類が自らの文明によって滅ぶなら、ハラスメントが原因だということになる。


ハラスメントというと、一般に意味するところは「嫌がらせ」です。ハラスメントが「嫌がらせ」であることに間違いはないのですけど、ハラスメントの本当の意味としては、いささか軽い。「生命力の減殺」くらいでちょうどよいくらいの重い意味が、ハラスメントにはあります。

しかし、残念なことに、多くの人はそのように考えません。いえ、考えたがりません。そう考えるのを拒否するんです。それがハラスメントの特徴でもあります。

それはちょうど、精神疾患を患ってしまった人が自身の病気を認めたがらないのと同じです。自身が異常な行動をしていると自覚していても、さまざまに理由を見つけ出しては、自身の精神が異常な状態にあることを認めようとしません。

逆に、自身の異常を認めて自ら自発的にカウンセラーなどに相談に行くようになると、治療の道のりはすでに半ばを超えているともいいます。

現在は鬱病などの精神疾患がポピュラーになり過ぎて、つまり、脳機能の障害と見なして投薬によって治療するべきものという認識が広がってしまって、身体の病気のように病院へ行くことが当たり前になってしまいました。しかし、そのような医療行為が本当に適切なものかどうかは疑問です。

たぶん、そうした疑問は精神病医自身が身をもって感じているはずなのですが、そのような感じに従ってしまうと、社会的にいろいろと問題が出てきてしまいます。「経営」という問題ですね。


ハラスメントが本当に大変な問題なのは、精神疾患と違って社会的に異常な行為をするわけではないからです。もっとも最近は、ハラスメントという言葉が広く知られるようになって来ていますから、以前よりはその異常性が認識されるようにはなってきました。しかし、それでも、やはり“異常なこと”という認識です。

どこぞの芸能人の離婚騒動で話題になったモラハラ。それから「しつけ」の問題。これらはさすがに異常すぎて異常だと認識されていますが、思い返してみると、少し前までは異常だとは思われていませんでした。夫婦なら当たり前、子どもの教育として当たり前、と認識されていました。

つまり少し前までは、“異常なこと”は“普通のこと”だったんです。ならば、ハラスメントの認知が進んでいけば、現在はまだ“普通のこと”だと考えられていることが、この先“異常なこと”とされる可能性はあります。それどころか、“普通のこと”すべてが“異常なこと”である可能性すらあります。

僕は、すべてとは言いませんが、“普通のこと”の大部分は“異常なこと”だと思っています。

そうだとすると、“普通のこと”と“異常なこと”の位置関係は逆転してしまいます。“普通のこと”だとされるのは、そちらの方がメジャーであるからに過ぎません。論理的には“異常なこと”が大半の占める可能性はありますよね。メジャーであることとイレギュラーであることは、別次元の話ですから。

文明社会とは、イレギュラーな“異常なこと”がメジャーになってしまう社会のことです。文明社会のメンバーつまり大人は、ほとんどがハラスメントに冒されてしまっています。


このことは、じっくり冷静に科学的に考えてみれば、別段不思議なことではありません。


私たちは人間ですが、人間は人間である前にヒトです。科学の様式に従って言えばホモ=サピエンス=サピエンスと学名で表示される生物種です。

以下、簡単に「ヒト」としますが、私たちヒトがこの地球上に出現したのは、数万年前、どれほど遡っても10万年にはいかない。長い長い生物進化の末にヒトという生物種がこの地球に出現した。

ヒトは、その祖先あるいは近縁種である類人猿と似た生態的特徴があります。群れを作って生活をするという特徴です。ヒトは類人猿と同様、集団をつくるという生存戦略を採用したわけです。

ヒトが作る集団は、他の類人猿と異なった特徴があります。それを特に「社会」と言うことにしますが、ヒトが社会を営むことができるようになったのは、「記号」というものを扱えるようになったからです。記号とは、言葉であり貨幣です。

ヒトは記号を駆使して社会を大きくし、様々な技術も開発してきた。社会の巨大化とともにヒトは他の種を圧倒するようになってきてしまいました。環境問題です。


ヒトは、ヒトが作った社会に適応して「人間」になります。「社会人」と言ってもいいでしょう。ヒトは、必ずしも「人間」ではない。子どもは欧米ではアニマルと認識されるし、文明的にもフルメンバーではない。だから「人間」とは「大人」だと言ってもいい。

ヒトは、地球環境に適応進化して地球上に出現しました。
人間は、ヒトが社会環境に適応することで出現しました。
大人と子どもは社会学的には別に扱われるでしょうが、生物学的には同じヒトです。

問題はヒトと人間が同じ生物だということです。
文明が発達するにつれて、ヒトの生物としての進化(変化)の速度と、ヒトが社会へ適応するのに要求される速度に大きな違いが生じるようになってきてしまいました。ヒトに要求されるスペックと、人間に要求されるスペックに大差ができた。

要求に大差が出来たといっても、ヒトはどこまでいってもヒトです。数万年後には進化して、社会が要求するスペックを備えるようになっているかもしれませんが、そんなSFまがいの話をしても仕方がありません。


文明人は社会に依存して生きています。しかし、そのことはヒトの歴史のほんの一部分でしかありません。地球生命の歴史で言えば、つい最近のことです。

ヒトが集団を営むことを生存戦略に採用したといっても、当初は、他の類人猿と同じように、生物としてのヒトに備わったスペック内での集団運営でした。ヒトのデフォルトの集団規模は150人程度といわれています。「ダンパー数」といわれている数字です。チームを組む場合にもっとも成果があがるメンバー数がだいたい150です。それ以上になると、効率が落ちるらしい。

私たち文明人適応を求める社会の規模は、150などという数字を遙かに凌駕しています。そのようになってしまうと、社会を維持するための原理がヒトとしての生態を阻害していってしまうようになります。ハラスメントの源泉は、社会原理のヒト阻害です。


これも別の角度から冷静になって考えてみれば、別段不思議な話ではありません。

人間(≠ヒト)以外の動物は、「感じること」を行動の視点にしています。これはアフォーダンス理論を持ち出すまでもなく、普通に理解できることです。ネズミもウシもトラもウサギもトカゲもヘビもウマもヒツジもトリもサルもイヌもイノシシも、誰も「考えて」行動するような生き物はいません。人間ではないヒトも「考えて」行動することはしません。「感じて」、それをそのまま素直に行動に移す。動物として、それはごく自然なことです。

ただ人間だけが、その動物の行動原理に反した行動をします。

動物にとって「感じることに従って行動する」ということは、生き延びていくために必須のものです。〈生きる〉ことそのものと言っていい。ヒトだって同じはずです。この先、数万年後は知りませんが、現在のヒトはまだ「感じることに従って行動する」ことが〈生きる〉ことのはずなんです。

しかし、文明社会に依存して生きている人間は「考えて行動する」ことを求められます。「考えて行動する」ようになることが社会への適応です。が、これはヒトとしての原理に反しています。

文明社会が高度に発達して、社会の原理がヒトの生命の原理と反するようになればなるほど、社会へ適応することそのものがハラスメントになってしまいます。社会のなかでは「感じること」に従って行動してはいけません。精神科医がおかしいと感じても、その感覚に従って行動してしまうと社会人として医者を続けていくことができません。

ハラスメントは、ヒトと人間の差異から生じるものです。単なる嫌がらせなどではありません。「人間という病」がハラスメントです。

以上のに考えていくと、ゴーダマ・ブッダがなぜあのような「悟り」を拓き、あのような行動をしたのかが腑に落ちてきます。なぜ涅槃なのか。なぜ出家だったのか。詳しくはまた機会を改めて記しますが、大乗仏教への転換も含めて、ハラスメントで説明ができると考えています。


人間はハラスメントを“普通のこと”として社会のなかで生きてきてしまっています。だから、涅槃に入るのが困難なようにハラスメントの構造から抜けだすのは困難です。

しかし、自分がハラスメントに冒されているかどうかは簡単に感じることができます。

ここまで読んでいただいた方に問います。

あなたはご自分が好きですか?

なんの根拠もなく、ただ漠然と自分で自分が好きだと感じている方は、おめでとうございます、ハラスメントに冒されていません。

嫌いだという方は、残念ながらハラスメントに冒されています。感覚を否定され続けた動物が自分に自信を持てる道理がないので、それは自然なことです。

そう“自然なこと”です。原因はあなたにあるのではなく、社会環境にあります。社会環境への自然な順応として、自己嫌悪が生まれていますから、実は自信を持ってもらっていいんです。

もっとも病が重いのは、なんらかの社会的アイデンティティに基づいて自分を好きだと感じている人です。スペックを追究している人はたいていこちらです。ハラスメント中毒になってしまって、ヒト「としての自然な作用すら喪失してしまっています。


よくわからなければ、冒頭に掲げた『誰が星の王子様殺したのか』を読んで見られるといいでしょう。『星の王子様』はファンの多い、「いい話」です。繊細でナイーブな愛すべき王子の姿が描かれています――と捉えるのは、ハラスメントに冒されている人です。

『星の王子様』は本当は気持ちの悪い話です。だって、主人公が自殺してしまうのだから、気持ちが悪いに決まっているんです。なのに「いい話」だと感じてしまうというのは、どこかで罠に引っかかってしまっているからです。

(『星の王子様』を「いい話」だと読解したとして、それが「正しくない」というわけではありません。それはそれで正しい読解ですので否定はできませんし、否定する必要のないものです。)

感じるままに。