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「主(ぬし)」の思想と感覚

横浜の戸塚に「まぁるい長屋“ぜん”」という場がありまして、ですね。

“ぜん”とはいかなる場なのか? 一口で言い表わすのは難しいです。

上にビジョンだの取り組みだの紹介しているページのリンクを貼ってみました。方向性は伝わるかと思いますが、「場の感覚」は言葉だけではとてもじゃないがつかめない。

当たり前か。

“ぜん”にできるするようになった理由は明白。それは「縁」です。

縁ってものを明確に言い表わすのは難しいのですけど、それが“縁”という言葉にすると、明白にその意味を感じることができます。論理ではなく感覚。

「主(ぬし)」も同じです。論理ではなく感覚。

「なるほど、言われてみれば!」

そうした気づきに出会ったのが“ぜん”でした。気づきを与えてくれる方と出会うことができました。これもまた縁。

その方はこの本の著者です。

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「主(ぬし)」という思想は伝統的な日本の思想であること。
その思想が明治以降、埋もれてしまっていること。

松村さんは、そのことを地主(じぬし)と名主(なぬし)の歴史的な意義から語り聞かせてくださったのでした。

「ぬし」と「あるじ」

漢字で“主”と書いて、「ぬし」と読む。あるいは「あるじ」と読む。日本語では別々の言葉が漢字ではひとつになるのは、おそらく中国では別々ではなかったからでしょう。

「ぬし」と「あるじ」は似ているようで違います。「あるじ」は英語にすると“boss”。「ぬし」は“hub”。「あるじ」はコミュニケーションを支配する存在であるのに対して、「ぬし」はコミュニケーションの中継する存在。

コミュニケーションというものは、どうしても失敗をします。それぞれが別個の存在だからですが、失敗しがちなコミュニケーションの隅々にまで目を配りコミュニケーションが円滑に進むよう導いていく。今日の言葉でいうとファシリテーション。「ぬし」とはファシリテーターに近い存在なのでしょう。

そして古くからの日本の思想は、コミュニケーションの相手を人間に限定しません。土地とそこに棲息する動植物もまたコミュニケーションの対象。「地主」とは、土地とのコミュニケーションにおけるファシリテーターのことだったのでしょう。

山の主(ぬし)。沼の主。こういった言葉の意味するところは、人間の領域ではなかった山や沼にもコミュニケーションが存在して、そこには「主(ぬし)」すなわちファシリテーターが存在した、というところでしょう。

それが現在は、“主”といえば「あるじ」でしかなくなっています。それどころか“地主”といえば土地の所有者を意味していて、コミュニケーションは極めて限定されたものになってしまっています。地主である所有者と店子あるいは国との関係は、ほぼ金銭的なコミュニケーションしか存在しないような状態になってしまっています。

責任

責任、すなわち responsibility。書いて字の通りであるなら「応答する能力」のことです。

コミュニケーションがあれば、応答があります。「ぬし(hub)」を担うにはそれ相応の応答能力、すなわち responsibility がないと務まりません。

ところが現代の「主」は responsibility は負いません。逆に土地の利用者に responsibility を負わせる支配者になっています。責任という言葉の意味するところが逆転してしまっています。お金というものがあらゆるコミュニケーションを支配するようになってしまったことの、必然の成りゆきなのでしょう。

森の主

ヘッダーに掲げた写真は、まぁるい長屋“ぜん”の裏山にある山桜です。この木に出会ったのも、これまた縁でした。“ぜん”となっているのはとあるマンションの一室です。その部屋の家主さんが森の地主さんでもあって、“ぜん”が縁で知り合うことになりました。

地主さんは森の木を切らないといけませんでした。周囲から落ち葉についての苦情があったそうです。それで解体業者に頼んで切ってもらったそうですが、地主さんにとって満足がいく仕事ではなかったらしい。それでたまたま縁ができた私に声がかかりました。私はかつて樵をやっておりましたので、responsibility があったわけです。

そんな成りゆきで桜と出会いました。立派な桜なので

花見をしよう!

という流れになって、周辺の笹藪を切り払ってみました。そして気がつきました。

この桜はこの森の主なんだ

都会のなかにある小さな森は、人間にとっては役立たないにものとしてしばらくの間、放置されていたようです。落ち葉を撒き散らす迷惑な存在でしかありませんでした。

ところがここに縁が生まれました。

まずは「主(ぬし)」に、人間と森とのコミュニケーションの中継点として役割を担ってもらうべく、お膳立てをしてみたいと考えています。


感じるままに。