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今日は命日。

今日は、我が家の飼い犬だったブーの命日です。

ほぼ1年前、ブーが死んで一週間後にテキストをあげています。

ペットロスは、もう癒えました。
癒え分は、母イヌのフクの方へと振り分けられたようです。

フクはまだまだ元気ですが、それでもこの一年でかなり弱ってきた。もう随分前から耳が遠くなっていますが、目の方も白内障気味になってきた模様。

何より寝ている時間が長くなりました。
24時間のうち、20時間は寝ているような。

でも、食欲はまだ旺盛です。起きて散歩へ連れだせば、まだまだリードを引っ張ってくれます。

それでも、来年になれば、もう一段二段、弱っているでしょう。自力で立てなくなったら、オムツやら何やら、“介護”のことが頭をよぎる。

お金も手間もかかる。大変だろうと、正直思います。

でも、これは【欲望】の反作用です。


1年間、こんなようなことを書いています。

母犬のフクは、ブーの「死」を察知していたようでした。ある瞬間に、フッと、フクのブーへの接し方が変わった。死臭を嗅ぎ取ったのかもしれません。ぼくたちはフクの様子の変化によって、ことの重大さに気がついたのでした。

フクのこの変化も〈気〉のありようだと言っていいのかもしれません。だとするならば、犬と人間では、ありようはずいぶん違うと言わざるを得ない。人間の〈気〉は動きは鈍い。

この〈気〉の動きの鈍さ、身体感覚と〈気〉を経由した実感とのタイムラグが、どうやら「欲望」というものの正体のようです。ぼくは、ブーの生の継続を望んでいた。家内もです。それは家族なのだから当然のことではある。しかし、その願いはどこか行き過ぎて「欲望」になっていたようです。「欲望」が〈気〉の動きを鈍くして、ブーの異変の察知を遅らせたのだと、なんとなくですが、そんな気がします。


大変だろうと予測する(できる)のは、ぼくが人間だからです。人間には、そうした能力が備わっている。

その能力がないイヌやネコは、「いま、ここ」を生きている。彼らは将来の心配などしない。心配することができない。

上で「〈気〉の動き」と呼んだものの差は、持って生まれた能力の違いから生まれます。


これは単なる違い。あるいは個性です。そこには優劣はありません

その証拠に、人間はイヌやネコにはできないことができますが、その分、余計な心配を抱えなければならなくなる。余計な心配を抱えて、その「余計」を解決する能力がなければ、重ねてツライことになってしまいます。



2日前、ちょうどイヌのことについて、こんなような記事が出ていました。


この記事は、優劣ありきの記事です。

人間は犬よりも優れている。
だから、犬を買っていいし、飼ってもよい。

ただし、それは犬を飼うことによって生じる「余計なこと」を解決する能力がある(一部の)者に限られる。

すなわち、金のある者。

人間は犬より優れ、金のある人間は金のない人間よりも優れている――。


ヒトに生まれてきたことが、残念に思えてしまいます。これではネアンデルタール人に申し訳がない。

ヒトとイヌとは友人同士であり、共犯者でもある。

これは、とても〈しあわせ〉なことだと思います。



感じるままに。