見出し画像

未来は未だ来たらず

お金の話です。


話の皮切りは、『サピエンス全史』から。

「第16章 拡大するパイという資本主義のマジック」に出てくる話から始めます。

 帝国を建設するにも科学を推進するにも絶対必要なものが、お金だ。とはいえ、そもそもお金とはこうした取り組みの最終的な目的なのか、それとも危険でありながら欠かせないものに過ぎないのか?
 経済が近代史においてはたした真の役割を把握するのは容易ではない。お金によって数々の国家が建設され、滅ぼされた。新たな地平が開け、無数の人々が奴隷と化した。産業が推進され、何百もの種が絶滅に追いやられた。その経緯については、すでに多数の書物が書かれている。だが経済の近代史を知るためには、本当はたった一語を理解すれば済む。その一語とはすなわち「成長」だ。良きにつけ悪しきにつけ、病めるときも健やかなるときも、近代経済はホルモンの分泌が真っ盛りの時期を迎えているティーンエイジャーのごとく「成長」を遂げてきた。目についたものを手当たり次第食い尽くし、みるみるうちに肥え太ってきたのだ。
 歴史の大半を通じて、経済の規模はほぼ同じままだった。確かに世界全体の生産量は増えたものの、大部分が人口の増加と新たな土地の開拓によるもので、一人あたりの生産量はほとんど変化しなかった。ところが近代に入ると状況は一変する。


“成長”という言葉は非常に聞こえがいい言葉です。ぼくも好きな言葉で自分の文章にも頻繁に用います。

でも、注意しなければならなりません。言葉はしばしば、イメージとは逆の内容を指したり、本来の意味を隠蔽するのに用いられることがある。

“成長”という言葉は自然現象のように聞こえます。本来の意味は自然現象であり、自然な生命現象です。

けれど、自然のように見えて、内実はそうでない場合もある。人間の食糧として大量飼育されているブロイラーのように、大量の飼料と成長剤を与えられて半ば人工的に身体が大きくなるように促された生命は、“成長”という言葉がもつ本来の意味で成長したとは素直に言いがたい。

とはいえ、ブロイラーもやっぱり言葉にすると「成長」と書かざるを得ません。言葉は、自由自在なツールであるように見えて、案外、不自由です。

自然な生命現象としての「成長」を〈成長〉と表記する。
不自然で強いられた「成長」を【成長】と表記する。
ぼくのいつもの表記法です。


『サピエンス全史』の第16章は、上の引用に続いて、複雑で理解し難い経済をわかりやすく解説するための例を提示します。

登場人物は次の3人。
金融業者のサミュエル・グリーディ氏。
建設業者のA・A・ストーン氏。
料理人のジェイン・マクドーナッツ夫人。

グリーディ氏が銀行を設立し、ストーン氏が100万ドル預金をする。マクドーナッツ夫人はベーカリーの経営を企画し、グリーディ氏の銀行から100万ドルの融資を受け、ストーン氏の建築業者にベーカリーの建設を依頼する。

グリーディ氏の銀行からマクドーナッツ夫人に融資され、さらにストーン氏の建築業者に支払われた100万ドルは、元はといえばストーン氏が銀行に預けた100万ドルです。

マクドーナッツ夫人のベーカリー建築が100万ドルで済み、マクドーナッツ夫人のベーカリー経営が順調に行って事業計画通りに銀行への返済が進むのなら、三方丸く収まってメデタシメデタシ。

でも、それでは話は面白くない。というより、「資本主義のマジック」の話にはなりません。100万ドルがぐるぐる回るのは、資本主義でなくても起きる現象だから。

 話はそこで終わらない。建設業者にありがちなことだが、仕事に取りかかって二ヶ月たつと、ストーン氏はマクドーナッツ夫人に、想定外の諸問題と出費のため、店舗建設の実際の費用は200万ドルになると告げる。マクドーナッツ夫人は面白くないものの、今さら計画を投げ出すわけにもいかない。そこでもう一度銀行を訪ねて、グリーディ氏に追加融資を申し込む。グリーディ氏が納得してそれに応じた結果、マクドーナッツ夫人の口座にはさらに100万ドルが入金され、彼女はそれをストーン氏の口座に振り込む。
 では今、ストーン氏の口座には、いくら入っていることになるだろうか? 300万ドルだ。
だが、銀行の金庫に実際に納まっている現金はいくらか? 依然として100万ドルだけだ。現実には最初に預けた100万ドルがそのまま残っているに過ぎない。

奇妙な文章です。

想定外の出費は「あるある」ですから不思議でも何でもありません。100万ドルの追加融資も理解可能なようで、実は「奇妙」はここから始まっています。

ハラリ氏の話の世界では、お金は100万ドルしか存在しません。ストーン氏が事業で儲けた100万ドルが全て。その全てがグリーディ氏の銀行を通してマクドーナッツ夫人に渡り、再びストーン氏に戻って、またストーン氏は銀行に預けて――とグルグル廻る。何度でも廻る。何度でも廻って、実際に存在するお金の以上のお金を融資することができる。ハラリ氏はここの理解のために、敢えて「閉じた世界」を提示してみせたのです。

 これは巨大なポンジスキーム(ネズミ講に似た詐欺の一種)ではないかと思う人がいるかもしれない。だが、もしこれを詐欺と呼ぶなら、現代の経済全体が詐欺ということになってしまう。現実には、これは詐欺というより、人間の驚くべき想像力の賜だ。銀行が――そして経済全体が――生き残り、繁栄できるのは、私たちが将来を信頼しているからに他ならない。この信頼こそが、世界に流通する貨幣の大部分を一手に支えているのだ。


ここからが本題です。長くなります。
ここまでですでに2283字。
10000字で収まらないと思います。


ハラリ氏の主張――詐欺ではなく想像力の賜物――は、近代以降の標準の考え方です。この「近代の標準思考」が生まれる源流に、ハラリ氏が指摘した「無知の発見」があったことは言うまでもありません。

科学と科学を元にした技術の発展によって無知が既知へと変換されていく。人類は自らの科学力と技術力に希望を抱くことができるようになったことで、将来を信頼することができるようになった。

理解しやすい――というより、嬉しい理解を提供してくれる「お話」です。


残念ながら、やはりこれは詐欺です。

「嬉しい理解」を否定するのは心苦しいものがありますが、でも、ある程度、人生の悲哀を味わったことがある大人ならば識っているはずのこと。「嬉しい理解」にしがみつく気持ちはわかるが、そこは乗り越えていくべきところ。乗り越えてこそ、新しい視点が開け、人生が変わる。


ぼくたち人間が将来を信頼したいと願い、希望を未来へ託すことは、ヒトとしてごくごく自然なこと。子を産み育てるという自然の営みのひとつだけをとって考えても、未来に希望を託すことが自然だということは自然な理解に至ります。ヒトの特長は、そうした理解を言葉にすることができるということにあります。

未来に希望を託すのはいい。〈生きる力〉の発露に他なりません。でも、よくよく考えてみてほしいのです。

未来は未だ来たらず


未来に希望を託すのは自然なことだけれど、未だ来たらざる未来を現に存在すると見なすことは絶対的に誤りです。「そのように理解するのが嬉しい」からといって、理解したいように理解してはなりません。

当たり前の話ですよね?

当たり前のはずなのに、この当たり前を蔑ろにすることで成立しているのがぼくたちが暮らしている(暮らさざるをえない)資本主義というシステムです。資本主義は、やってはならないの「当たり前の蔑ろ」を当然とすることによって成立しています。

この【当然】を言いつくろうために用いられる言葉が【成長】です。



話を『サピエンス全史』の例の戻します。

マクドーナッツ夫人が追加融資を受けることができるのは、資本主義だから。【未来への信頼】がシステムにビルトインされているからです。お金は100万ドルしかないのに、それ以上の追加融資を受けることができる。一応、法律で制限が加えられてはいて、『サピエンス全史』によるならば上限は700万ドル当たり。

では、残りの600万ドルはどこから来るのか?

経済学というものを知らない一般的な庶民の常識からすれば、他の人(ストーン氏以外)の預金だと考えるでしょうけれど、さにあらず。そう考えるのはハラリ氏が設けた例の設定に違反してしまいます。

答えは、「未来から来た」。

冗談みたいですが、半分は本当です。
「未来を信頼する」ことで、未来から借金をした。
具体的な金融の操作は「紙幣を刷る」。もしくは「銀行口座に数字を書き込む」。たったこれだけのことです。

「たったこれだけのこと」、つまりは虚構ですが、人間は未来を信頼して、この虚構を信用します。人間が構築している人間社会の中で通用する通貨として取り扱う。そうやって取り扱うことが【成長】の源泉になっている――というのが近代経済学の標準思考です。


もう一度、記します。

未来を信頼するのはいい。
でも、「そのように理解するのが嬉しい」のは危ない。
未だ来たらざるモノを現に存在するものと見なすことは、「当たり前の蔑ろ」である。

未来を信頼することで、今現在有効と見なされる虚構(通貨)を創り出す。

この行為は、「そのように理解するのが嬉しい」というヒトの弱さを見据えて考えるならば、「当たり前の蔑ろ」だということが見えてきます。

未来は未だ来たらないのに、未来が現に存在するかのように虚構を組み立てて、その行為を【成長】と呼ぶ。


変だと思いませんか?
おかしいと思いませんか?

ぼくにはどう考えてもおかしいとしか思えません。
「自分の頭で考える」と、何度考えても、おかしいとしか思えない。当たり前を蔑ろにしているとしか思えません。

けれど、ぼくの頭の考えはぼくが生きている社会の標準とは異なる。異端です。自分の頭で考えれば考えるほど異端になっていってしまいます。

正直、「自分の頭はおかしい」と感じることもしばしばです。だから、

というようなことをやって、

自分で自分の中に「大丈夫」を見出す


ことをやらずにはいられなかったりします。


ここまでで4000字あまり。
まだまだ続きますので、一端、切ります。

次回は、「未来から呼び出された虚構」が「現在」でどんなふうに作用しているのか「自分の頭で考えたこと」を書いてみたいと思います。



感じるままに。