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迷惑の話

富士山麓は、梅がぼちぼちと咲き出したところ。
一昨日の春分の日は雪でした。
春の重たい雪。
30cmくらい積もりましたか。

雪は夜半には雨に変わって
昨日の朝方には晴れてきた。
気温もぐんぐん上がって、となると、
雪は一気に溶けて、道路はグチャグチャ。

雪解けのグチャグチャは、さほど嫌いではない。
長靴を履けばいいんだし
少しゆっくりとに歩けばいいんだし
いつもと違うというのは、嫌なことではない。

ただ、嫌なものはある。車は嫌。
徒歩で歩いている横を、水飛沫を上げながら走り抜けていく車は困る。減速していってくれる車もいるけれど、なんの頓着もなく走り抜けていくものある。

迷惑なことです。

そういうとき、ぼくは「乱」を起こすことにしています。
道の真ん中を歩く。
そうすると、車はどうしても減速しないといけない。車が後ろにつくと、道を譲って先に行ってもらう。車が先に行くと、また、真ん中を歩く。

これまた、車を運転している人には迷惑なこと。
もっとも、中途半端な広さの道でのことですが。


気を遣って減速してくれるドライバーもいる。
そうでないドライバーもいる。
この差はマナーというものでしょう。

歩行者が道の中央は車に開けてあげて、隅を歩くいうのもマナー。状況によって、マナーを守るものが一方的に被害を被ることがある。

そうした状況のときは、甘んじない。
順調な流れを遠慮なく妨げる。
その「順調な流れ」が自らに降りかかる迷惑の上に成立しているならば、「流れ」に迷惑を掛けて、自らへの迷惑を撥ねのける。

そういう振る舞いをしていると、しばしばトラブルにはなりますが...。


気を遣ってくれるドライバーには、申し訳ないことです。けれど、気を遣ってくれるドライバーと、そうでないドライバーを見分ける方法はありません。そうなると、「車vs歩行者」という枠組みで捉えるしか術がない。

車が高速で移動をすると、水の溜まっている道路では、どうしても水が飛ぶ。その場に居合わせると、どうしても迷惑を被る。
車が通るからといって、歩行者がそこに居合わせてはいけないという道理はない。迷惑を感受しなければならないという道理もない。

「車vs歩行者」という対立構造において、「車」は強者です。歩行者は弱者です。強者は弱者に対して無理を強いることができるので強者であるわけですが「無理が通れば道理が引っ込む」になる。

だから、道理を通すために、あえて迷惑をかける。


でも正直、ちょっと怖くもあります。
普段、車が通る場所だと認識しているところを、車が来るのがわかっていて歩くのは、身がすくみます。人間はそういうふうにできている。

で、身がすくむのならやめた方がいい。
これまた「無理」だからです。
無理が無理でなくなるようになってからにした方がいい。

強者であることを求める者に、無理が無理でなくなることはないでしょう。ゆえに、強者であろうとして死に物狂いで頑張ることになる。そうした頑張り方をする者が「大人」だとか「社会人」だとして認知されます。

そうした頑張りは、システムを滞りなく運行させるのには重要なこと。でも、それは、とても「残酷なこと」だと思います。

流れを平気で遮る者がいると、トラブルは絶えないでしょう。トラブルが絶えないのは「剣呑なこと」です。

でも、「残酷なこと」よりも「剣呑なこと」の方がずっといいと思います。

この本に描かれているのは、ぼくに言わせれば「剣呑なこと」です。小学生のことですから「剣呑」という言葉は強すぎるように感じられますが、大人と呼ばれるような年齢ならば「剣呑」というものでしょう。

オビに「主体的に学ぶ」という言葉があります。
「主体的に学ぶ」ことと「剣呑なこと」とは、切り離すことができません。次回か、もしくは次々回で、そのあたりのことを語りたいと思っています。

追記。
「残酷なこと」で思い出したのが、チャップリンの『モダン・タイム』。『モダン・タイム』を紹介するのはいまさらなので、これを貼り付けておきましょう。

懐かしい...

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