『のだめカンタービレ』
で、
「間接体験」に感応する〈自己〉を感じて、「直接体験」を導き出す回路を太く大きくしていく
というようなことを書きました。
それは『論語』でいう〈学習〉。冒頭の学而第一に掲げられる『論語』の核心部分なんだけれども、そういう話はどうしても説教臭くなります。
なので、同じことを別の言い方で。すなわち、『のだめカンタービレ』で語ってみたいと思います。
ちなみにぼくが鑑賞した『のだめ』はテレビアニメ版です。原作のマンガやドラマは未確認なので、以下に取り上げるストーリーはアニメで観たもの。原作やドラマ版でもあるらしいですが、一応、念のため。
“のだめ”こと野田恵は、第一期で千秋と一緒にいたいという恋愛感情をエネルギー源にして、コンクールに挑みます。ところが見事、失格。落選ではなく、失格なんですね。急ごしらえでコンクールの課題曲の準備をし、素晴らしい才能でこなしていくけれども、才能が徒になって曲を弾ききれなくなってしまった。
ところが運良く、コンクールの審査員をしていた人物に拾われる。シャルル・オクレールというキャラクターです。そして、晴れて、千秋と一緒にパリへ留学することができる。あ、千秋は就職でしたね。
オクレールはのだめのことをずっと“べーべ”と呼んで一人前に扱いません。なぜか。確かにのだめのピアノの才能は素晴らしい。けれどそれは、「ピアノを弾く」ことについての才能であって、「音楽を奏でる」というものではない。のだめは「ピアノを上手に弾く子ども」ではあるけれど、「ピアニスト」ではない。だから“べーべ”。
「ピアノを上手に弾く」というのは、いうなれば「直接体験」です。のだめが作曲する『プリごろ太のマーチ』とか『もじゃもじゃ組曲』とか『おなら体操』とかも、そう。音楽的な才能は素晴らしいけれど、独りよがりの表出でしかない。
のだめのこうした状態は、『論語』でいうならば
子曰
学而不思則罔 思而不学則殆
の「思而不学則殆」です。
「思」は「直接体験」であり、その表出に優れているけれど「学(間接体験)」をシャットアウトしてしまっていて、「殆(あやう)い」という状態になっている。
別の言い方をすれば、のだめには歴史がない。ピダハンみたいなものです。
でも、それはちゃんと理由がある。
『のだめカンタービレ』は、とてもよく出来たストーリー構成になっていると思います。
のだめが「学(間接体験)」をシャットアウトしてしまったのは、トラウマに因ります。才能があるということだったのでしょう、ピアノ教室に通っていたのだめは、そこで「思(直接体験)」を大人から認めてもらえずに「学(間接体験)」を押しつけられた。ハラスメントに遭って「慍」を抱えてしまっていた。「慍」がのだめの「学」を阻害していた。
一方の千秋は、音楽については「思」から「学」を経由して「習」へと至る〈学習〉の回路が出来上がっている。千秋にとっての「慍」は、飛行機事故に遭って海外へ出られなくなるというトラウマ。
このあたりのコメディタッチな描き方は、マンガやアニメならではという感じで、好感が持てます。
のだめが海外へ行きたいと思うのは、千秋への恋愛感情からです。千秋はのだめに〈学習〉のことを幾度も伝えますが、のだめの関心はそこにはない。のだめは千秋の気を惹くために〈学習〉に関心を持っているフリをしているだけ。
とはいえ、のだめは音楽人間なので、音楽で千秋と「結ばれたい」と思っている。そのためにパリにまで行って、音楽を勉強しているわけです。
ところがです。千秋は「浮気」をしてしまう。別の女流ピアニストと音楽で「結ばれて」しまう。それは、千秋にとっては〈学習〉の過程に過ぎないのだけれど、そこを目標に頑張ってきたのだめにしてみれば「浮気」に他ならなかった。
「浮気」になってしまった音楽がこれ。
好い選曲ですね。いやらしいほどに。
してやられたと感じたのだめは、このあと肉弾攻勢(!)に出る....、「音楽で」のはずが、「女と男」になってしまう。これはこれでいいことなんですがね。
なのにニブチン千秋は、のだめを受け止めなかった。なので次はのだめが「浮気」をする。その場面がこちら。
(う~む、竹中直人が気持ち悪い...、これでドラマは観られなかったんです (^_^;)、や、竹中直人は好きな俳優なんですけれど。)
けれど、所詮、浮気は浮気。余計にのだめは傷心になってしまう。そこで味わう絶望感がベートーヴェンのピアノソナタとシンクロします。31番3楽章の「嘆きの歌」から人生への再帰の音楽。
ここにおいて「間接体験」でしかなかった音楽が、のだめ自身の「直接体験」として〈接続〉されます。ベートーヴェンの体験と同一かどうかなんて、もちろん、どうでもいいことです。
このことは、千秋やオクレールがのだめに「伝えよう」としていたこと。
「教える」ではないんです。「間接体験」から「直接体験」への〈接続回路〉は他人が植えつけられるものではない。自身でどうにかして生成するしかないもの。この「どうにかして」こそが、ドラマというものの本質だと思います。
『論語』は、「どうにかして生成」できたことの楽しさを、「友人が遠くから訪ねてきてくれたときのようもの」と表現します。
そう、実は〈接続回路〉は「友人」なんです。
遠ざけられてしまっただけで。
「遠ざけられること」が反自然であり、日本人の感覚だと「魂が穢れる」になる。中国人だと「不仁」でしょう。欧米ならば「原罪」という感覚。
これらの感覚は、「間接経験」へのレセプターを持つことで生じる「反作用」とでもいうべきものだと思います。
「反作用」もまた、自然です。
が、「反作用」に対してさらに「反作用」で返し、またさらに、、、と繰り返していくと、どんどん自然から遠ざかって〈生きる力〉が奪われていく。
現代社会に生きるぼくたちは「反作用」を拗らせてしまっています。
感じるままに。