20190918偽金

水を足しても薄くならないお酒は存在しない

空想から話を始めましょう。
こちらの続きです。


わが日本国では本年の5月1日に改元が行われました。「平成」から「令和」に。日本では古来から天皇が代替わりをすると元号が改まる決まりになっています。

暦を定めるのは古代から帝王の特権であり治世の手段でした。


改元の折に新天皇は詔(みことのり)をひとつ発します。詔に曰く、

 「令和の世においては、1日を48時間とする」

似たようなことは、お金の世界ではときおり行われることがあります。デノミネーションで、日本でも幾度か政治の議論の俎上に上がったことがある。

とにかくも1時間は2時間になり、5分は10分になりました。


天皇が詔を発したのはいいとして、天皇を補弼するの任にある行政府には手抜かりがありました。法体系を修正しなかった。おかげで労働基準法に守られる労働者は、法令通り8時間働けばいいようになった。

24時間の内の8時間ではなく、48時間の内の8時間。24時間換算なら4時間の労働で、しかも賃金は変わらず。

労働者は喜びますが、企業は困ります。企業が労働者にいっそうの生産性向上の圧力をかけるようになるのは必然の流れ。企業は労働者に向かって、

 「1日が24時間から48時間になっても1時間は1時間。
  これまで通り「1時間」の仕事をせよ!」

と求めるようになる。
そうした流れになるのはわかるにしても、無茶な要求でしょう。

なのに新天皇と政府は、時間デノミの成果を宣伝します。

 「労働時間は短縮された。働き方改革は達成された。」


――バカげた空想なのは言うまでもありません。



ところが、お金に関したは「バカげたこと」が現実に起きています。起きているどころか、「バカげたこと」を続けていかないと社会がおかしくなるような仕組みになってしまっている。

上のテキストは、『サピエンス全史』の中にでてくる「複雑な経済システムを簡単に理解するための話」を元に展開したものでした。

3人の登場人物(金融業者のグリーディ氏、建築業者のストーン氏、料理人で起業家のマクドーナッツ夫人)をめぐるお金の流れの話。

もともと「社会」存在したお金はストーン氏の「過去の労働」100万ドルだったのが、グリーディ氏の銀行がさらに100万ドルを「未来の労働契約」として創造した。それで「社会」に存在するお金は、元々の100万ドルと合わせて200万ドルになった。

お金が2倍の200万ドルになったからといって、「社会」に存在する富(物品・サービス)が2倍になるわけではない。1日を24時間から48時間にしても1日の時間が倍になるわけではないのと同じように。

1日を24時間から48時間にすることにメリットはあるでしょう。考えられるのは、時刻の刻み目が小さくなりますから行動の計画がより緻密になるだろう、とか。

「モノ(時間・富)」の「尺度(時刻・お金)」を変更するのは、時として必要かもしれません。江戸時代以前の時刻法から24時間の時刻法になったように、デノミネーションが行われるように。

尺度が変えるのであるなら、その尺度が通用している範囲全体に適用しなければならない。1時間が2時間になったのなら、労働時間が8時間だったのを16時間に労働基準法の記述を改めなければならない。理性の初歩も初歩、小学生にだってわかるはずの「人間として当然」の理解です。

ところが奇妙なことに、お金に関してだけはそうなっていません。お金が増えた(尺度が改まった)からといって、お金が測っている「富」が増えるわけではないのは当然の理解のはず。なのに、現代の常識では当然が蔑ろにされている。

当然の蔑ろを何と言っているかというと、「錯覚」と言います。

貨幣錯覚(かへいさっかく、money illusion)とは、人々が実質値ではなく名目値に基いて物事を判断してしまうこと。本来、貨幣価値の変化を考慮した購買力によって判断しなければならない時に、金額を通じて判断を行なってしまうこと。貨幣の中立性が成立しなくなる一要因である。

どうにもこうにもキミョウキテレツな文章です。

「人々が実質値ではなく名目値に基づいて判断してしまう」のが誤りだというのなら、貨幣は富の尺度としては役立たずだと言っているのと同じ。貨幣は何より先ず尺度なのだから、名目にこそ意味があるはず。

次に「貨幣価値の変化」と書いてあるけれど、本来、貨幣の機能は「尺度」なのだから、貨幣にそもそも価値などありません。錯覚というなら貨幣価値が錯覚です。

そして貨幣の中立性。近代資本主義の貨幣は元から中立ではありません。貨幣が中立に尺度として機能するには、理性の初歩の初歩、小学生でもわかるであろう「人間として常識」――尺度を変えるなら、その尺度が通用している範囲全体に適用する――が守られていません。

輪をかけて奇妙なのは、このキミョウキテレツな文章がすんなりと理解できてしまうということ。多少でも経済学を学んだ者ならば、何の疑問も抱かないのが普通に見られる社会現象でし、日本語というツールを高度に駆使することができる人間が数多く目を通しているはずなのに、誰も奇妙に思わない――かくいうぼくだって、最近までは奇妙に感じていませんでした。


こうなると、そもそも「理解」というものが何なのか、わけがわからなくなってきますね。「理解」とは「洗脳」のことかもしれないとさえ思ってしまいます。


ぼくたち労働者がお金を「過去の労働の結晶」と見なすのは、ヒトとして備えている言語機能の発露、すなわち「誠実」であり、例えるならお酒でしょう。対して、「結晶」の上面だけの【記号】(信用創造された貨幣)は水に相当する。

水で薄めたお酒を正規のものだと偽って販売すれば詐欺です。けれど、薄まったことがバレなければ詐欺が発覚することはありません。水で薄まらないお酒は現実世界にはありませんが、虚構の世界には存在する。虚構に酔いしれる人間は、酒と水の区別がつかきません。銘酒のラベルが貼られてありさえすれば、水であっても銘酒になるのが虚構というもの。

学問の本来の役割はお酒の中身を吟味することになるはずなのですが、近代の経済学が果たしている役割は、本来の学問とは正反対のように思えてなりません。

ラベルが本物なら酒も本物だと言いくるめるプロパガンダが近代経済学の任ではないのか(と考えているぼくは、アタマがおかしくなってしまったのではないとも同時に思っています)。


次回は、たった今、キミョウキテレツと断じた言を転倒させます。

理解のゲシュタルト崩壊へ(笑)



感じるままに。