オキナワンロックドリフターvol.70

大学進学の目標が定まってからだんだんと気力が湧いてきた。
そんな時に清正さんから一本の電話があった。山田優さんや蛯原友里さんが専属モデルとして活躍し、人気を博していた“CanCam”の沖縄特集記事にココナッツムーンが取り上げられるという。私は嬉しさの余り、清正さんに「うるさいよ!」と叱られる程歓声をあげた。
さらに当時のココナッツムーンは、清正さんがお子さん同然に可愛がり、信頼を寄せている平岡さん、通称・タフさんという男性が沖縄移住し、ココナッツムーンの姉妹店としてゲストハウス『タフ&ココナッツ』を開店したことで、ゲストハウスの来客が自ずとココナッツムーンに来店し、活気づいていた。その活気がいい話を呼ぶのだろうか、清正さんは人気ネイリストからオファーを受け、その爪に青地に南国の花を散りばめたネイルを施された記事がネイルアートのムックに掲載されたり、グルメ雑誌“dancyu”にてココナッツムーンが紹介されたりと雑誌媒体でココナッツムーンがたびたび取り上げられた。
私はココナッツムーン通信にそれらを紹介したり、ライブ告知等を書いて配信した。
半ば強引に志願したボランティア活動とはいえ、書くことはある種の治癒行為だったし、読んでくださった方がココナッツムーンに来店し、ココナッツムーンを好きになってくださり、それをメールにて伝えてくださっていることも誇らしかった。私の言い出しっぺとはいえ、ココナッツムーンの情報配信という居場所を与えてくださった清正さんには今も感謝している。
しかし、ネットではMy Spaceやmixiを通していろんな出逢いや恩恵を受けたものの、仕事は相変わらずしんどさだけが増していった。上司とコンサルタントお気に入りの営業マンの方の誘いを頑なに断った春以来、上司はやたら私に当たるようになり、さらに職場の忘年会は私にとって決死のサバイバル忘年会と言うべきものだった。
忘年会は強制参加だった。気の乗らない飲み会自体苦痛な上に、上司はかなり泥酔していて私に呑めと迫ってきた。しかし、以前の職場の飲み会で上司が私を蔑み、見下していることが判明してからはうかつに酔って弱みを見せたら大変なことになるのが解っていた。なので私は体調が良くないからノンアルコールでとひたすら窓の外の鹿威しを眺めながら烏龍茶を飲んでただ時間が過ぎるのを待った。
が、上司は一筋縄ではいかなかった。へべれけ状態の社長や重役まで巻き込み、私に酒を飲ませ、私のプライベートを探ろうとした。さながら私の心境は、風刺の踊りを舞って殿様の怒りを買い、大量の酒を飲まされそうになったおけさのひょう六である。しかし、私にはひょう六のように酒を飲むことを体を張って阻止してくれる愛猫はいない。頼れるのは自分だけだ。
なんとかかわし、宴会はお開きの時間となった。私は終電に間に合わないのでと後ずさりしながら帰った。
去り際に「何様ね、あんたは!付き合いが悪か。後でどうなっても知らんぞ」という上司の低い声を聞いたが、澄んだ空気を吸いたい一心で足早に駅へ駆け出した。
その「後でどうなっても知らんぞ」は翌年2月から退職する2008年春まで思い知らされることになるのだがそれはまた別の話。
私は消耗しきった心身を引きずりながら、電車に乗り、やっと呼吸ができた解放感で満たされていた。
私は家に帰り、鴉の行水で風呂に入るとMy Spaceにアクセスした。私を訪ねてくださるユーザーの方々増え、高校時代紫の追っかけをされ、今はイタリアのハードロックバンドのギタリストの奥様だというカズエさんという方と仲良くなり、彼女から英語の文法を教わり、さらに紫の追っかけ時代の話をしていただいた。
ルイジアナ在住の元アメリカ兵のジョーイは日本のアニメやゲームに詳しいようでファイナルファンタジーシリーズや、涼宮ハルヒの憂鬱についてメッセージをやり取りしあった。
今思うと現実逃避も甚だしい状態だったのかもしれないが、当時の私は城間兄弟と清正さんとの電話での交流以外では、フリオやウェイン、カズエさん、ジョーイとMy Spaceを通して仲良くなった方々や、テルさん、ナオさん、水越さん、ムオリさん、くじゃく姐さん、深紫さんたちとのメールやmixiでのメッセージのやり取りのおかげでなんとかつらい日々を耐えられた。
その一方で、来年度の試験の情報はないか、一乗寺教授のいる大学の公式ホームページにアクセスしては情報を収集していた。少子化と大学全入時代の影響なのか、私が高校時代の頃に比べて受験科目は激減していて正直ほっとした。しかも、鬼門である理数系の教科が受験科目になかったのも幸いだった。これなら1年頑張ればなんとかなるかもしれないと思い、私は受験科目の問題集を仕事帰りに書店に寄って買った。
そして、暮れも近いある日、思いきって2007年の1月下旬に沖縄旅行をすることを決めた。
貯金箱を割り、貯めた小銭を数えると旅費+小遣いが賄える額になっていた。私はそれらを紙幣に替えて旅行会社にパックツアーを申し込んで入金した。1泊目は京都観光ホテル。2泊目~4泊目は楽天トラベルでパルミラ通りのゲストハウス『コザクラ荘』を予約。『コザクラ荘』は、その名のとおり、カフェバーコザクラのマサコさんが営むゲストハウスである。
この旅が終わったらしばらく会えないかもしれない。折角だから会いたいと思い、私は城間家に電話した。
電話には俊雄さんが出た。ほんのりテンションが高い気がしたが、俊雄さんは元気そうだった。
私は事情を話し、しばらく会えないかもしれないから今度こそは俊雄さんに、できれば正男さんにも会いたいと懇願した。
俊雄さんは快諾された。2003年に初めて会って以来、なかなか会えなかった俊雄さん。やっとまた会えるのだと嬉しさに顔が熱くなった。
「正男にも話しておくから」
そう俊雄さんはおっしゃってくださり、後日、正男さんからも承諾を頂いた。
清正さんに沖縄に来ることと来沖の日程を話すと、「ちょうどよかった。あんたが来る日につじあやのがココナッツでライブをやるからおいでよ」とお誘いしてくださった。
後で不幸になるのではないかと心配になるくらい幸先の良すぎる出来事ばかりだった。気を良くした私は2004年のオフ会で失敗したというのに、mixiのコミュニティでオフ会を呼び掛けた。
場所は元コンディショングリーンのサーミーさんが営む居酒屋ちゃぼに決めた。
コミュ障がいきって無茶な呼び掛けをしたにも関わらず、ムオリさんのおかげでムオリさんの友人である新垣さん、前回に引き続きチーコさんが参加表明された。
人数は少なかったものの、前回お会いし、気心知れたチーコさんやmixiでのやり取りのみだが比較的趣味が合う新垣さんが来てくださることが決まり、嬉しかった。
実際、この年の沖縄旅行は15年間の沖縄通いを通しても屈指の愉しく幸せな旅行となったのだが、それは次回記させて頂く。

(オキナワンロックドリフターvol.71へ続く……)
(文責・コサイミキ)

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