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1. 病気になるのは、それだけで本当に大変なこと(Ⅰ)~17歳で発病した2人の患者さん

「ただの病気」と「死ぬ病気」

看護師として38年目の春を精神科病院の慢性期閉鎖病棟で迎えています。ここで私が日々痛切に感じているのは、長く患うことの大変さ。これに尽きます。

看護師になって9年間、私は内科病棟でたくさんの亡くなる人と関わってきました。この時期、私に強い印象を残したのは、ほとんどが亡くなった患者さんです。人が死ぬ、という事実はあまりにも衝撃的で、その他のことが霞んでしまったほどでした。

その後精神科病棟に異動すると、しばらく人が亡くならない日々が続きました。正確に言うと、精神科病棟に移った1996年から緩和ケア病棟の看護師長を兼務する2003年まで。患者さんを看取る機会はほとんどなくなったのです。

患者さんの死が仕事から遠のいてみると、代わって近景に浮かび上がってきたのが、病気をすることそのものの大変さ。これは本当に申し訳ないのですが、それ以前の私は、死にばかりに目がいき、病気が見えていなかったのです。

もちろん、看護師ですから、病気の知識はありますし、その場その場で最善の対応をしたとは思います。けれども、やっぱり、「見えていなかった」と言う痛恨の気持ちはあるのですよね。

現実的な対応はともかく、気持ちの中で、亡くなる患者さんばかりに関心を寄せ、そうでない慢性病の人を、どこか軽く見ていたのではないか。そんな反省があるのです。

実際、内科病棟時代の私は、患者さんを、「ただの病気」と「亡くなる病気」で、明らかに分けて考えていました。同僚との会話でもそれを口にしていた記憶があります。

あえてその言葉を使うなら、精神科病棟で働くようになった私は、「ただの病気」で人生が大きく変わった人をみるようになりました。病気は「死ぬから大変」なのではありません。病気をすることそのものが、とても大変なことなのですよね。

これはおそらく、私だけに限った話ではないように思われます。あまりにも多くの人が亡くなっていると、病気そのものの大変さがマスキングされる可能性があるのではないでしょうか。その結果、私は「ただの病気」と決めつけた人に対して、どこか冷淡だったように思うのです。

世間には、「命があれば丸儲け」とか「命があればあとはかすり傷」という言い方があります。しかしこれは、大変な目にあった当事者が言うことであって、他人が言うことではありません。

看護師に限らず、多くの死に触れる領域で働く医療者は、こうした「病気の軽視」について、十分注意したいものです。

オオゼキさんの場合

私が今勤務している慢性期閉鎖病棟にきたのは、2022年の4月。それ以前は、同じ精神科病院の訪問看護室で15年間働いていました。

言うまでもないのですが、訪問看護の現場は、利用者さんの自宅になります。精神科の訪問看護は、特に行う医療処置もなく、会話が占める比率が高くなります。初対面の人といきなり話をするのは難しく、最初はかなり苦労しました。

そんな駆け出しの頃、私のことをなぜか気に入って、話をしてくれたオオゼキさん(仮名)という60代後半の男性がいました。

オオゼキさんは幼少時から学業の成績が良く、有名大学への進学率が抜群の高校に入学。その後17歳で統合失調症を発症し、高校は2年で中退しています。

私が初めて訪問した時、オオゼキさんは東京六大学の校歌を集めたCDをかけていて、ちょうど明治大学の校歌が部屋に鳴り響いていました。

「オオゼキさん、よろしくお願いします。珍しいCDかけていらっしゃいますね。白雲なびく駿河台〜って、明治大学の校歌かしら」と私が言うと、彼はとても喜び、「そうそう。よくわかるね。頭が一番いいのは東大だけど、校歌はね、法政が1番。明治は2番だよ。ははははははは」と大笑いで応じてくれたのです。

明治大学を中退して看護学校に入った経過から、明治の校歌は耳に覚えがありました。何がきっかけで話が弾むかは、本当に分かりません。緊張がかなり解けた気がしました。

以来、彼は私が訪問するたびにそのCDをかけ、大学に行きたかった話などをしてくれたものです。

「親はね、東大に行けって行ったけど、早稲田がいいって言ってたんだよ。芝居とかね、なんか、カッコいいって思ったんだよね。高校生って、子どもでしょ。いろんなこと考えた。考えすぎたから、病気になっちゃったのかもしれないけどね。ははははははは」

彼は何を話しても、最後には笑いで話が終わるのです。

発症以来、彼の生活が一変したのは、言うまでもありません。診療録を見ても、症状はなかなか収まらず、その間に親きょうだいとの関係も、断ち切られています。

精神症状が治る頃には、帰る家もなくなり、当時は生活保護を受けながら、グループホームで暮らしていました。

彼の笑い声を聞く度、私は時に一緒に笑いながらも、なんとも言えない気持ちになったものです。それはありていに言えば、切ない気持ちというのでしょうが、その一言で終わらせたくない、なんとも複雑な気持ちでした。

彼があのように笑うまでに、どれだけの悲しみを乗り越えたのでしょうか。

ヤマムラさんの場合

一方、私がかつて勤務していた内科病棟は、患者さんの平均年齢が高く、高齢者が多かったことも、亡くなる患者さんが多かった大きな理由でした。

20代30代の人でさえ珍しかった病棟で、10代の患者さんといえば、17歳で急性リンパ性白血病になったヤマムラさん(仮名、女性)のみ。残念ながら、治療の甲斐なく、20歳を迎えることなく亡くなっています。

急性白血病にはさまざまなタイプがあり、急性リンパ性白血病は、小児であれば、比較的治りやすい印象があります。ところが、ヤマムラさんは17歳。小児の範疇ではありません。当初から、治療は難航が予想されました。

発症から死去までの足掛け3年の間に、退院できた期間は本当にわずかでした。高校2年で発症し、長期病欠のため、退学。どんなに辛い治療でも、笑顔を絶やさなかったヤマムラさんが、退学後はしばらく誰とも口をきかなくなりました。

「勉強苦手だけど、学校には戻りたい」。そう言ってがんばっていたヤマムラさんにとって、学校に籍がなくなるのは、自分を支える目標を失うことだったのでしょう。

病気になってからのヤマムラさんは、あまりにも多くのことを諦めてきたと思います。

早く学校に行きたい、無理なら少しでも早く。誕生日を家で迎えたい。無理なら、病室でケーキが食べたい……。

少しずつ目標を下げて、叶う目標にしようとしても、病状はそれも許しません。最後になってしまった誕生日、腸炎を起こして絶食中のヤマムラさんは、お母様が買ってきたケーキに口をつけることもできませんでした。

あの時は、もう本当にそこにいた誰もがたまらない気持ちになり、本人も母親も、私たち看護師も、泣いてしまいました。

私が<絶対に神も仏もないな>と確信するのは、こういう時です。命を奪うなら、ケーキくらい食わせろ。その時、もし、神や仏が目の前に現れたら、すかさずそう言ってやりたいと思いました。

信仰をお持ちの方には、不快な表現でごめんなさい。でも、そう思ってしまうくらい、あの時は、理不尽な気持ちだったのです。

病気は選べない。それが全て

ヤマムラさんが亡くなってから、すでに30年以上が経ちます。当時17歳だった彼女は、生きていれば40代の終わり。改めて、若い死だったと思わずにいられません。

また、亡くなった時にはもはや涙も枯れ果てていたご両親は、お元気なのでしょうか。ヤマムラさんにはきょうだいはおらず、唯一のお子さんだったはず。ご夫婦仲良くと、願わずにいられません。

他方、オオゼキさんはといえば、80歳を超え、足腰がうんと弱りました。グループホームでの生活は難しく、しばらく入院したのち、今は施設で暮らしています。

かたや治療の甲斐なく亡くなり、かたやさまざまな苦難を経ながら、歳を重ねてきました。改めて、病気になることそのものが、大変なのだと思います。

そしてその大変さの根本には、自ら選べない、という事実があります。

「病気になったからこそ、わかったことがたくさんある」と、多くの患者さんは言います。若い頃の私は、不遜にも、「そうは言っても、病気にならないでわかったほうがいいよね」などと考えました。

また、病気同士を比べては、「まだこちらの病気の方がマシ」などと考えたりしました。

しかし、このような態度は根本的に間違っているのではないでしょうか。

なぜなら、病気になる・ならないは、そもそも選べない。これが全てです。私たちは、自分でその病気をどのように考え、対処するか、決めるしかないのです。

選べることと選べないことの違いはあまりにも大きい。そもそもそれが選べないことならば、仮定の話は意味を持たなくなるのです。

亡くなったヤマムラさんも、老いながら生きているオオゼキさんも。降りかかってきた病気に、一生懸命対処してきたのは間違いありません。

病気をするのは、それだけで大変なこと。そしてその先に、疾病観、死生観、健康観などが、出てくるのだと思います。この先は、それをテーマに話しを進めます。

2024/3/30 パレスチナ土地の日にちなんで行われたガザ侵攻に抗議するデモにツレと参加しました。病気よりもずっと、戦争はニンゲンがなんとかできるはず。


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