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親愛なる君へ

#キナリ読書フェス【名作小説部門】最優秀賞受賞作品


カムパネルラのような終え方をしたかった。
『銀河鉄道の夜』を読んで、なぜか高校時代の僕とを重ね合わせ、そんなことを思ってしまった。高校時代の僕が読んでいたら、間違いなくそう思うだろうと。
そしてその程度のことしか理解できないだろうということもある。

高校時代の僕は、絶望とともに毎朝を迎えていた。
無味無臭。モノクロの景色。パサパサの乾き切った心のフィルターから映る世界なんてそんなものだ。と何か悟ったフリをして、冷ややかに物事を見つめ、毎日神様に舌打ちをしていた。神様が目の前に現れようものなら、全力で唾を吐きかけてやる。
相当にひねくれた、どうしようもない人間になってしまっていた。

最低である。
当時の僕は、どうにもこうにもがんじがらめで、深い闇の中にある沼にハマり、ひとり溺れていた。しかもその沼は沈まないくらいのドロドロさと粘着さがあり、ひたすらにもだえながら、必死に抜け出そうにも、そこが沼であり、溺れた状態であるということすら認識できていなかったため、ただただ疲れ果て、神経が衰弱していくのみだった。

だからこそ、カムパネルラが羨ましかった。
ジョバンニという親しい友人がいて、心優しく、最終的には人のために命を落とす。そんな人生の終え方を、羨ましく思ってしまっただろう。
この短絡的な思考回路と想像力の欠落を、今となっては危うく思う。

でも僕は、カムパネルラになれるわけもなかった。
そもそも人を助ける勇気もなかったろうに。
どちらかと言えば、僕はジョバンニだったかもしれない。しかも、ジョバンニから純真さを引いたジョバンニだ。
「世界がぜんたい幸福」という賢治の想いからは、だいぶかけ離れた世界を生きていた。



そして、現在の僕が思うこと。それはジョバンニのその後が心配だということ。

ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云えずに博士の前をはなれて早くお母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと思うともう一目散に河原を街の方へ走りました。

この物語のラスト。
親友を亡くしながらも、今いる家族のために一目散に走る。この締めくくりは、この先、強く生きていくための覚悟のように思える。最愛の妹を亡くし途方に暮れる日々を乗り越え、今いる農民のために全力を尽くす。賢治の意志が強く浮き出されたものと思う。


大切な人の死を抱えながら生きていくことは、本当に辛い。
過去に二人、“十字架”を背負いながら生きていく人を間近で見てきた。

新卒で入った会社とその次に入った会社の僕の直属の上司は、女性だった。そして二人とも祖父を自死でなくしているという不思議な共通点があった。二人の歳もほぼ同じ。その二つの会社の労働環境は劣悪なもので、一週間のうち、帰れない日があるのはザラだった。

そんな環境の中でも、二人の先輩は郡を抜いて働きまくっていた。
とにかく身を粉にして働いていて、平日の睡眠時間を合計しても二桁いかないくらいだと思う。
インフルエンザになっても出社して追い返されていたし、「最近は風邪を引くと葛根湯3本とシルクストールをネギ巻きしないと治らないから年だな」と言い放っていたり。後者はよく意味がわからない。

祖父を亡くしたことについては、数年、上司と部下という間柄で共に働き、関係性ができてきた中で、夜な夜な一緒に仕事をしていて話してくれたことだった。共通して言っていたのは、どうしても「私が生きている意味」というのをふと、深く考えてしまうということ。一人の先輩は、「故郷に錦を飾りたい」と言っていた。その「故郷」の前には、カッコつきで「祖父のいる」がついている。


人は記憶に支配されて生きている。
嬉しい。悲しい。幸せ。憎い。その時々に感じる感情は、自分が過去に経験した記憶によるものだ。記憶が感情を誘発させるファクターとなり、時にはカンフル剤となって人を突き動かす。
眠い。休みたい。そういった感情までも振り切って、自分にムチを打ち突き進む先輩たちの背中は、どうしても“十字架”を抱えているがゆえのことに思えて仕方がなく、見ていてとても辛かった。

きっとその記憶が強烈すぎて、自己愛を有に勝ってしまうのだと思う。



つまるところ、もしものもしも、ジョバンニがそういう未来をたどるのだとしたら、僕はそれが嫌なのだ。
ジョバンニは心が豊かで清らかで優しい。しかしそれゆえの脆さもある。


その心の豊かさと同じくらいの自己愛もちゃんと育んで、たくましい大人になってほしい。自己愛が基盤にない自己犠牲は、ある意味“なんでもできてしまう”のだ。今後の人生を生きていく中で、たとえ打ちひしがれるようなことがあったとしても、そんなときに「よく頑張った」「君は間違っていない」と認めて讃えてくれる大人が一人でも多くいますように。そんなことを願うばかりである。



「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
九、ジョバンニの切符


そして彼の人生は「ほんとうの幸い」とは何か、それを見つける旅でもあるのだろう。しかしそれは永遠の旅でもあるように思う。『銀河鉄道の夜』の中ではまだ、“わからない”のだ。まだまだその永遠の問いの中で、悩み、ときに落胆し、もがきながら生きている。


そして賢治自身ももがいていたに違いない。この作品は、関東大震災の翌年から書き始めたもの。書き終えるまでの9年間は不況が続き、重く、暗い時代だった。妹を亡くし、私生活も、社会全体も深い闇の中にありながら「ほんとうの幸い」をもがきながら模索している様子が、作品から透けて見える。


でも彼は諦めなかった。のちに彼は言う。
「幸せを探す過程の中にこそ、幸せがある」と。
視線の向こうに“存在”しているのではなく、問いかける自分の心の内にこそ幸せがあるのだと。

それは、想像力と言えるのかもしれない。
人に出会い、美しい自然や風景、あらゆる生き物・生命に出会い、違いを知る。それぞれの世界を知る。想う。想像する。そうした、自分の心の内に宿るものにこそ、答えがあるのではないか。


大切な人を失い、残された人たちの悲しみは、完全に拭い去ることはできない。それは一生背負って生きていくものなのかもしれない。
それでも彼は、想像し続けた。だからこそ、90年近くたった今でも、温もりの温度や優しい肌触りが伝わってくるような作品を、創造できたのかもしれない。


その優しく温もりのあるメッセージやジョバンニの心の豊かさは、僕に大事なことを再認識させてくれた。高校当時の僕で言えば、「認識させてくれた」だ。
それは「もっと素直になれば、世界はもっと明るいよ」ということ。
柔らかい声で、そう言ってくれている。


心のフィルター次第で、僕の世界はどこまでもカラフルになれる。もしジョバンニのように、心が水素よりも透き通っているとしたら、どんな景色が見られるのだろう。

想像力さえあれば、辛いことだって乗り越えることもできるし、解決の糸口がひょいっとでてきたりもする。

想像力さえあれば、僕はひとりじゃないと思える。僕もあなたも自然もすべて、世界は一つでつながっているのだから。そしてこの世界のどこかには自分の居場所があり、そうして一生をともにする人も現れるのだろう。

想像力さえあれば、僕たちの憧れとか、夢とか、生きがいとか、理想とか、大切に大切にそっと心の中で握りしめている未来の地図の行き先は、どこまでも自由になれる。

この物語は、そんなことを伝えてくれた気がする。





だからこそ、僕も未来から伝えたい。


親愛なる君へ。

大丈夫。未来はうんと明るいよ。
賢治が描いたあの輝く銀河のように。



『銀河鉄道の夜』。
それは読む人全員に、どこまでも行ける緑の切符を与えてくれる。
宝石のようにキラキラした、希望が詰まった一篇の手紙である。






人は記憶に支配されて生きている。

違う。

人は想像力でいくらでも幸せになれる。








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