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私が、公務員を続けることをやめれないのは、自分の中で自分を自分として肯定できてないからであった。②

この話は、島根の海士町へ私が行って、高校生のみんなに話した事をもとにしています。

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続きをどうぞ。


東京に戻ってくれば、私は公務員への就職が決まっていた。

え!?

“私の興味関心があることを積み重ねていって、それを信じるだけでいい。”

って言ってたじゃん!


そう、私は興味関心があることを積み重ねるだけでいいと、肌で感じつつも就職が決まっていた公務員への道を突き進むことになる。


なぜか。

この話は、ここからが肝である。

一歩出すことも難しい。


しかし、この世の中“やめる”ことの方が遥かに難しいようなのである。



その時の問題を解決する最適な手段が、公務員になることだった。

問題とは、私は自分とは何者であるかもわからず、色々しているのに統率が取れなくて、自分の根幹の部分が分からず、自信がありそうで自信がなかった。

学校も卒業して、やりたいことだけやって、周りを見れば友人は“会社”と言われる組織で頑張っている。海外支店勤務や資格試験勉強をして、なんだか充実しているように見えた。

既定路線が嫌いだとか言って、私はただブラブラして逃げているだけじゃなかったか。
本当に自分に向き合っているのか。自分はなんなんだ。答えがこのままブラブラしていて出るのか。


インド行って次はアフリカ行きたいけど、そのお金もすぐに捻出できないようなフリーター、ただのブラブラして行きたいところにすぐ行ける財力も実力もなく、私はこれでも自分から逃げてないと言えるのだろうか。


そんなことを、海士町へ行く前に考えて、公務員試験にパスし、受かってたぶん自信もついたのだろう、そしてやっと、私は、スゴイ場所“海士町“へ足を踏み入れたのだった。それが上記であり、訪れたことで私は初めて、


“何者でなくてもいい。

私は、私の興味関心があることを積み重ねていって、それを信じるだけでいい。“


という体感を得た。

そして、体感を得ただけでは、どうしても、自分を信じて興味関心のある方向にいくという道へ舵を切ることができなかったのも、また事実である。


海士町では、地図を得た。
夢を持ちながらも、浮かずに地に足をつけた多くの大人に出会ったからである。



私は、その地図を片手に持ちながら、公務員として働いた。


一つにアフリカへの資金を貯めるため。
(入社初日に先輩たちの前で、私はアフリカへ行くためにここに来たと話しました。みんなやばいやつが来たと思っただろう・・・(笑)嘘がつけなくて!すいません!)


もう一つは、私は社会で働けるのか?という不安と疑問を解消するためだった。
社会不適合であると小学生の時から先生たちに言われながらも(ルールを壊す人だから、社会不適合とのことで。てへ。)一方で、クラスの代表、学年の代表として表に立つことも多く、中1から学級委員長なりしてきた私は、もう、自分がどちらなのかわからなかった。ずーーーーっと、不安だった。不適合なのか。適合するのか。どっちなんだ。私は、なんなんだ。この社会で、不か合か判定してくれよ。


そんなこんなで、役所に勤めて働いて、社会人2年目でアフリカにもいけて(趣味旅行)、3年目あたりから、何か忘れ物をしたような気持ちでずっと過ごしていた。仕事は楽しい。職場のみんなも優しい。アフリカ宣言していたから、達成して職場でも喜んでくれた。でも何か、忘れた気がする。なんだったか。

でも、私はクビにならずに大きな大きな失敗もせずに何とか仕事をしていた。
(小さな失敗は毎日だけど。私の長所は事務仕事では使わないので、、。)


周りの友人や恩師には、ルールに抵触し、すぐ懲戒免職になるのでは?と言われていたのに、職場が優しくフォローしてくれていて、数年も続いていた。そのことが、とても誇りだった。仕事もとっても楽しくて、普通に過ごしていても人助けをしている私は、市民の方々のために働くことが、もしかしたら天職だったのかもしれないと思った。

そして、あんなに、社会不適合と言われていた私が、こんなにも公(おおやけ)で普通のことをしている。奇跡に近い。私を否定していた当時の先生たちや何人かに、声を大きくして言いたかった。私は、あんたらが言うような不適合者ではない。社会に適合する人間なんだと。


仕事も人間関係も何も問題は無かったが、社会人4年目を目前に、血尿を出したり、高熱が出たり、大腸に異変が起きたり、帯状疱疹が出たり、耳鳴りがしたり、色々な体調不良になった。

だけれども、別に身体は動いていたので、普通に出勤していたら、ある日、突然にベッドから起き上がれなくなった。まあ、実際には起き上がれるけれども、帯状疱疹のオンパレード+倦怠感+高熱で流行病かと思ったが、そこから何週間も14時間以上睡眠をしてやっと3時間動けるような生活になり(ゼリー状のもの飲む、体を温タオルで拭く的な、あとはぼーっと。)、ざっくりいうと、動くのにかなりの労力を割かなければいけなくなってしまった。


全く働かなくなった頭で、これは脳のショートだと悟った。本が好きなのに、読んでも全く文字が理解できなくなっていたからである。14時間以上、脳を休めることで、やっと3時間の行動ができる。パソコンで言うところの、解析不可、画面がフリーズ、くるくるして重くなった状態だ。


楽しくやれていたと思っていたけど、なぜなのか。仕事を私は、いくつかやりっぱなしではなかったか。やっぱり、私は…。

ベッドで仰向けになって、仕事のことも気になったけど、月日は過ぎて行った。
数ヶ月同じ状況で、全く改善せず、季節が夏から秋そして冬になり、ベッドの上で仕事には、もうすぐには戻れないんだと諦めた時、仕事とは別の悲しみが、ふつふつと胸に湧き上がってきた。


「私は、もう、旅に行けないのではないか?」
「私は、もう、世界中の面白い人たちにもう会えないのではないか?」


ベッドに横になりながらも、起きている間に自分の状況考察のため書き綴っていたノートを見返せば、いたるところに“旅”“旅”“旅”と書いてあった。


私は、訳もわからず、ただフラフラしていたのではない。
自ら、“旅”を選んだ。つまり好きで、フラフラしている道を選んでいたのではないか。
そうか。
あのフラフラしているのが、私の道だったか。
私は、フラフラして生きていきたい。これが私の答えだ。自分の決断を信じる。


(ここまで至るのに、半年以上かかりました。最初の動けなくなってから現状把握に3ヶ月を要し、病院を数々当たり、色々な人に相談し、そこから類似症例を探し、症例当事者に聞いたり、体験談を読んだりして自分との対話を自分に落とし込んでいきました。)


自分の決断を信じよう、そう思ってからは、段々に、睡眠時間も整ってきて、冬が終わる頃には14時間が12時間になり、春を迎える頃には、12時間が10時間になっていた。それと共に、動ける時間も増えてきて、実家の家族と共に近所のスーパーに行って手伝うくらいの1時間の外出もできるようになっていった。


だんだん元気なってきた、
梅雨明けに、職場へ復帰するまでになった。
職場では、暖かく迎えてくれ、私も大いに張り切っていた。

でも。
人は同じことを、繰り返す。


私はまた、倒れ職場へ行けなくなった。


人は同じことを、繰り返す。そしてまた、立ち上がる。

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