旅客自動車を何色で塗るかについて

 息を大きく吸うと、もう、すっかり冷えた空気が肺を満たして、幾分か満足げに欠伸をした猫たちも驚いて目を丸くしている、かといって短毛の、四本の細い足を震わせて立っている子犬はいつでも餌に飛び付こうと筋肉を温め、そうして秋の風に乗ってやってくる香ばしい夜の料理の匂いは、僕に切ない昔の思い出のような何かを想起させずにはいなかった。

 酔った頭で冴え渡って、抱擁する恋人たちを側目に大通りを進んでいると、手が凍えてきて、前にこんな夜があっただろうか、と疑ってみる。以前にも同じ道を通った気がしたし、以前にも同じ過ちを繰り返したような気がしていた。だが、決定的に違うのは今、この道を通っているということだった。電車が追い抜いて行った。対向車線には「空車」のランプを点らせたタクシーが列をなしていたが、僕の家の方へ向かうタクシーは一向にやってこなかった。仕方なく歩く外なかった、吸ったタバコの煙が目に入ってしみ、反対側から歩く女のタバコの煙と混ざり合って、白の二つの呼気は走っていく回送列車に押し流されていくのだった。

 ベッドの反対側ではメジャーリーグの実況が「ビッグ・フライ」を声高に喜んでいて、アメリカで活躍する日本人野球選手を称えた。僕は腕を大きく振って、次に呼ばれている場所へと向かった。誰に呼ばれても嬉しくなかったが、誰かに求められることは快感でもあった。その快感の遠くで、奥深いところで熱している、熟している、鋼鉄のような塊が溶け出していて、やっとの思いで息を吸い込み、また、肺は冷たい空気で満たされる。

 会話の中で、互いを褒め合い、互いを認め合い、仲間だと言い、家族だと言い、遥か20数年の人生に想いを馳せ、数年の思い出に涙を流し、ともに過ごしてきた数千日間を、早送りで見渡す。そのスライド・ショーに横からコメントを入れ、そして記憶は更新され、より甘美なものになっていく。そう、あの年の楽天ゴールデンイーグルスが何よりも美しかったように。

 時間に殺される、仕事に殺される、金に殺される、欲に殺される、人に殺される、自分に殺される、心はそうしてアップデートすることしか出来なくなる、鋼鉄のような、熱く熟したこの塊を丁寧に叩いて、延ばして、鍛えていく。それだけのことをするのに、熱意は必要ない。誰の言葉でも救えない、救えない、救済とはなんだろう? 懐かしい響きがして、不意に小虫の羽ばたきが思考を遮る。小さな羽音は近くで聞けば大きく、大きな羽音は大きすぎて今はまだ、誰も気づくことが出来ずにいるのかもしれない。適切な距離で適切な音に耳をすませ、適切な季節に適切に息を吸い、適切な場所で、適切な言葉を交わす。

「ああ、新宿なら反対方向だよ」

長い列の先頭までいかなければ、僕はタクシーにさえ乗れないのだった。

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