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文学としての舞台「チャージマン研R-2」(ネタバレ含む)後編

 さて、本題に入る。表題にある通り、この舞台には文学がある。私がそう感じた点は主に以下の二つ。

①四面に見えるように配慮された四人の主人公→それぞれの人格を持っていて(アムロ、東北訛り)それぞれが別の語り手として物語を語る。
②新宿Faceという「場所」を観客と「チャージマン研の登場人物」が共有している。

 ①について。四人の主人公は全く同じことを四面の客に向かって繰り返すのではなく、反復されるたびに変容していく。それはアムロ・レイの声真似や訛りや言葉遊びなどのいわゆる「下らないもの」ではあるが、全く同じでないということは、座る場所によって、語られ方が異なるということだ。

 普通、演劇にとって、第四の壁が一方向に認識されていて、語り手は固有の「演者」としてメッセージを発する。アナキン=スカイウォーカーはこちら側で涙を流す人にお構いなしに一度だけ「I'm your father」と言う。どこに座っていても、ダースベイダーの声は、彼のただ一人の声であり、ただ一つの事実だ。

 しかし、この「チャージマン研R-2」では、数人の研によって反復されるたびに舞台上の(フィクション内の)「事実」がねじ曲がっていく。まるで内田百閒の「冥土」のように、繰り返され、変容し、しかもその変容具合はどの主人公を中心とするかで大きく変わる。四面全てに第四の壁が意識されると同時に、そのフィクションと現実の壁は、そもそもないものとして本編の爆発と共に取り消される。②の話となる。

「ほら、宇宙空間なのに、新宿Faceの天井が崩落して、濁った空が見えるね」

これを言う研によって、私たちは強制的に研の演者たち、ではなく研たち自身と場所を共にする。その時私たちは一体現実の世界にいるのかフィクションの世界にいるのか?でも、「新宿Faceの屋根が崩壊した」のはフィクション内の言語であるから、私たちはその一言でフィクションの世界に放り込まれていることに気づく。

 そして、劇の最後、研の父親がふと視線を上げ、ここで初めて、研が四人いたことに気づき、驚愕する。え?なんで?それまで魔王の声で「気にするな!」と言われ、88888と拍手を送っていた私たちはこの父親の表情で一気に現実に引き戻される。ああ、そうだ、どうして研が四人いることを受け入れられていたのだろう?

 私たちがフィクションの渦中に力づくで押し込められた時、圧倒的な演技力を持つ村上幸平さん演じる魔王の「気にするな!」はほとんど呪いのように私たちに降りかかり、まあ、そういうものかという謎の納得感と共に、当たり前のように登場するモザイク付きの神龍も四回繰り返される演技にも、ボールのバリカンにも、違和感よりはむしろ笑いをもって解決してしまうのだ。

 その緩急によって、フィクションの内部にいる時、私たちは観客として笑っているから、何か「距離のある場所」にいる気がするけれども、普段の観劇に比べればかなり彼らと近い場所(同じ世界)にいるので、「コロナウイルス 」を魔王と研が倒した時や、キャロンのちくわが研を救った時や、己の憎しみの全てを「コロナウイルス 」にぶつけるシーンではカタルシスは増長し、それまで「下らない」と笑い声を上げていたのに急激な落差を持って、涙を誘われるのである。

そしてカーテンコールでは、演者たちはハッピを着て登場し、私たちを現実の世界へと返す手伝いをしてくれる。彼らもまた、「チャージマン研」の世界から脱するためにハッピをまとい、「ドリフのような」お祭り騒ぎのいわゆる現実世界のお笑いに戻してくれる。

カーテンコールの様子

舞台「チャージマン研」はそれ自身の持つ強力なフィクション力と、反復されることで事実が変わるという二点で極めて文学的だった。

ニコニコ生放送との連携で、2010年代の作る新しい文化の先端を垣間見たような気がしたし、ただ小ネタを拾うだけでも、推しの演者を見つめるだけでも楽しめる。だが、この舞台の持つ力はまだ、計り知れない。
 あと三日間、ニコニコ生放送で放送される舞台「チャージマン研R-2」を、文化の最先端という観点から観劇して欲しい。

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