猫と希望のメロディーについて【2】


これは、人生についての手記である。

「私が十八だったころの話です、」指揮者と名乗る男は話し始めた。「暑い夏でした、あるいは暑くない夏なんてものは存在しないのかもしれないけれども、とにかくそれは暑い夏だったと私は記憶しています。私は、学生でした、窓を開け放して、私は巨人対ヤクルトのデイ・ゲームをテレビで見ていた。テレビくらいはあった。テレビはあるが、クーラーはつけない、私はそういうタいうタイプの貧乏人だった。中古のクラシック・レコードは買えるけれどもビートルズは買えなかった、神宮球場は外野席にしか座ったことがなかった。そういうレベルの話です」
 指揮者と名乗る男は話し続けた、どうでもいいようなことから、世界のシステムの根幹みたいなことまで、彼はひどく詳細に話した。僕はたまに煙草に火をつけながらその話に耳を傾けていた。その年に【煙草に火をつけながら人の話を聴く世界選手権】があったら僕は間違いなく入賞しただろうが、その年の日本はまだそんな大会を開く状況にはなかったのだ。僕は彼の話をとにかく黙って聞き、その彼の表情や、動作を見て、そして礼とコーヒー代を置いて自宅へ帰り、その話を一時間かけてゆっくりと思い出し、シャワーを浴びてから彼の話を文字に起こした。
大抵の場合、インタビューは一度に三時間ずつ行った。二〇一一年の夏、僕は彼の話を聴くことで一ヶ月を費やした。指揮者と名乗る男は僕に、真面目に三時間きっかり、話し続けることでその夏を過ごした。
これは、彼の人生についての手記であった。彼の振るワルツはテンポが特徴的だった。

【ボレロ】一九二八、モーリス=ラヴェル
「この間会った時よりももっと、君のことが好きだ。」
「うそ?」
「会うたびに好きが大きくなる。」
「ふうん、良さそうね。」
「とっておきを教えてあげるよ。」
「何?」
「今、僕が書いている曲は君の曲なんだ。」
「でも、発表するんでしょう?」
「君にだけ聞かせる曲だよ。」
「嬉しい。」
「世界一優しくて、世界一丸い音色だ。」
「猫みたいね?」
「ああ。」

「まずは、あなたのお名前を教えていただけますか?」
「私は、【指揮者】と言います。」
「【指揮者】さん、よろしくお願いします。あなたは僕に話をする。僕はそれを聞く。いいですね。【指揮者】さん、まずはご年齢を聞いても?」
「ええ、私は今年五十五になります、娘が一人、もう成人して、子供もいる。」
「僕はこれからあなたと話をします。時間はたっぷりとある、このクーラーのしっかりと効いた部屋で、僕はあなたと話をします、ゆっくりいきましょう。」
「はい、よろしくお願いします。」

【指揮者】と名乗った男は僕の飲んでいた半分ほどまで減ったアメリカンコーヒーを一瞥してから、レモンティを頼んだ。額に浮かんだ汗を青のハンカチで拭いたので、ハンカチには汗のシミがつき、額の汗は拭われ、ハンカチは汗の分だけ青が濃く滲んだ。当然のことだ。僕はそれを見ていた。


 ダイヤモンドペインティング、恐ろしく退屈な作業だ。二十色、合計二千個余のビーズを台紙に一つ一つ貼っていく、台紙には色の指示があって、僕はそれに従ってビーズを選ぶ、取り上げる、置く、その繰り返しだ。独創性はない、ただ、山吹色、臙脂色、白色、様々な色を一つずつ丁寧に置いていく、それだけだ。まるで置かれた餌に群がる猿のように、僕はそれを繰り返す。その絵が完成した時、僕はその画家に礼を言い、ある程度の倦怠と同量の達成感を得ることだろう。それを繰り返す間僕は煩雑なことを思う。テトリスのミノはどこからやってくるのだろう?青山通りのロマンスはいつ終わるのだろう、古めかしい喫茶店に流れるジャズ・ミュージックは誰が選ぶのだろう?

【オブラディ・オブラダ】一九六八、ザ・ビートルズ
「愛こそが全てだ。」
「愛はどこにあるの?」
「唇さ。」
「唇?」
「キスをして、唇と唇がゆっくりと離れる瞬間、それが愛だよ。」
「繋いでいた手を解いた瞬間?」
「太平洋に沈む夕日が、最後の一滴を絞り出して夜がやってくる瞬間、レコードは回り終わって、ぶつぶつと小言を言いはじめる。」
「ねえ、曲はできたの?」
「今日はそれを演奏しにきたんだ。」

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