ヤングアダルト・チャイルド

ところで、夢はどうなったの?

 高校生の頃、ずいぶんお世話になった先生が少しだけ赤い顔で話しかけてきた。
フジモト先生はかつて僕に、彼女の美学について熱心に教えてくれ、僕に道筋を示してくれた。学生時代、若い先生だと思っていたがそれはより若い学生にとってそう見えたというだけで、社会的に見ればもうかなり偉い役職につく年齢だそうだ。 
 若い頃、流れ出ていた赤い血は彼女によって止められた。止血をしてくれる彼女の冷たい指は僕の心臓を凍らせ、刺した。握りつぶされて木っ端微塵になった後で、再度構成された心臓は、少しだけ元の形とは異なっていた。だが、そのことによって、僕は実際にこうして東京に来、スーツを着るようになった。夢?なんの夢を語っていただろう。僕は彼女に夢の話をしただろうか?いずれにしても、若い頃の話だった。夢は夢のままどこかの世界の話として理路整然と語られ、蒙昧な現実の中では蝶のように自由にどこかへと飛んで行ってしまう、軽く、儚いものだったのかもしれない。
「気づいたら、カメレオンになっちゃっていました」
「そう簡単になれるものじゃないわよ」
「カメレオンの話、覚えてるんですか? 」
「ええ、もちろん」
「全員との全部の会話を? 」
「子供みたいな質問ね」
「小学生みたいですか? 」

 僕がそう尋ねると先生はケラケラと笑って、別の学生(かつて学生だった誰か)のところへと移って行った。片手に持ったグラスの中に半分くらい残っているビールを干し、注ぎに行くついでにかつて恋人だった同級生に話しかけたが、彼女の左手を確認する前に彼女は別の友人に連れ去られてしまった。
 一人になり、会場を出、ロビーの奥にある喫煙所に入り火を付ける。ガラス越しに、数人の元、友人たちが驚いたような目でこちらをみやった。確かに、煙草を吸うような学生ではなかったかもしれない。ものすごく悪いことをしているような、巨大な羞恥心が襲って、こそこそと火を消すほかなかった。彼らの前で僕はまだ煙草を吸うことができない。僕のことを知らない人たちと一緒でなければ、僕はカメレオンになることさえできない。喫煙所を出るとフジモト先生が立っていた。

「ね、簡単になれるもんじゃないでしょう? ねえ、夢はどうなったの?」
「なんでしたっけ」僕は正直に訊いた。
「忘れちゃったか」
「ええ」
「なら、いいわ、別に。」

彼女の美しい肌は少しくすんで見え、少しキツすぎる香水にちょっとのめまいを感じた。お腹を膨らませ、烏龍茶を飲みながらロビーのソファに座る女は、かつてクラスの全員からいじめを受けていたが、今の彼女を祝福しない者は居なかった。本当に底意地の悪いのは僕だったのかもしれない。ロビーは玄関から直結していたので、自動ドアの開閉で冷たい空気が入り込み、彼女がくしゃみをしていたのでホテルの宴会担当者に言ってブランケットを一つ借りた。彼女は、ありがとう、大丈夫、と言って宴会に戻って行った。
 もう血は出ないと思っていた。
 でも、必要な力だと思っていたもの、巨大な装甲だと思っていたものは、本当はある瞬間においては全く無意味になってしまうし、どの瞬間においてもリーサル・ウェポンにはならないのだった。そもそも、僕は何を殺そうとしていたのだろう?
 もう、かつて自分が敵だと思っていたものに明確な敵意を持つことは少ない。もう、かつて自分に明確な悪意を持って向かってきたものたちが、改めて僕に悪意を向けることも少ない。でも、僕は彼らに復讐するべきだろうか? それとも、カメレオンのように美しいたくさんの肌で彼らを魅了するべきだろうか?フジモト先生。どう思いますか?

「ねえ、私と寝た時、あなたは童貞だったでしょう? 」
「え?」隣には先生が居て、先程の紅潮した頬はもうすっかり元に戻っていた。記念撮影をするから、中に戻ってきなさい。少しだけ色気と快活さが混ざり合った声で言った。
「僕は、撮らなくていいです。」
「そう。」
「ええ、童貞でした。」
「ダウト、もう会うこともないかもしれないわね。」
「え? 」
「夢もない、素敵な肌もない、あなたに抱かれる筋合いはないもの」
「あの時はあった? 」
 去り際に先生は僕の首筋にキスをして、記念撮影に戻って行った。
 誰も通っていないのに自動ドアが開閉して、中のどんよりした温度の空気と、外の湿った空気が入れ替わった。キスをされたとき、去り際に小さな声で先生は僕に囁いた。

 「あの頃の君のこと、本当に好きだったんだよ。」

 先生は語りすぎるのだ。簡単なことも、難しいことも、何もかも喋りたがる。はやく東京に戻りたかったが、新幹線は速すぎた。然るべき距離を移動するときには、然るべき時間を要するべきだ。もっともっと強い鋼鉄を鍛えるか、もっともっと美しい肌を手に入れるか、もう、いっそのこと。
 ホテルの担当者が何か話しかけてくる。大丈夫ですと応え、外に出ると、鼠一匹いない綺麗な街には、いくつかの信号機が雪を被って煌めいていた。


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