いつまで経ってもおんなじことばかり

 憤りがあって、諦めがあって、それが徐々に、段々に溶けていって、側から見るとそれは、かなりの場合、大人びてるだとか達観してるだとか、そんないろんな言葉があてがわれた。自分自身でも、そんな言葉を向けられることに嫌悪感や倦怠感を覚えることはあったけれども、それでも日々を暮らしていくことはそれ以上に苦痛を強いられるものであった。だから、そんな言葉にも、憤りや諦めを覚え、そして段々とそれが溶けていくのがわかっていた。段々と溶けていって、最後に芯だけは残ると信じていた。でもそれも空想のことだった、もっと暴力的に、感情は溶けていき、もっと哲学的に、論理は失われていった。思っているよりもずっと速く速く、溶けていく速度はずっと速く、比喩なんかじゃとても追いつけなかった。言い訳はいくらでも思いついた。不安や憤りは、別の何か、お金や知識やゆったりとした時間によって覆い隠すことができた。その「覆い」の下で自分が大切に守っているつもりだったものがとても追いつけない速度で溶けて行っていることに気づかずに。頭は未だズキズキと痛んだ。憤りを解決しないまま大人になれと、大好きなロックスターが優しく教えてくれた。憤りは憤りのままでいいと、でも、大人になった時、憤りの熱量は彼の半分にも満たなかった。憤らないことが正常な活動になってしまった時、憤らないことに憤り、そして無限機関のように憤りを沈める作用が自動的に働き、それは質量を吸収する特異点となってどこかへ消えてしまうのだった。また、朝がやってくれば、その特異点をどこかへ見失ってしまう、それを再び探し出すために、探し出して、握り潰すために、また途方もない長い距離を歩かなければ行けなかった。燃やしてしまえばよかった。誤報だろうか、火事を知らせる警報がずっと鳴り続いている。燃やしてしまえばよかった。あの時、燃やしてしまっていれば、その日を絶やさずにいることはそれほど難しくはなかったのかもしれなかった。でもそれも、単なる空想に過ぎなかった。火のつけ方を知らないことと、火をつけることを恐れることと、一体どちらが、、いや、そんなことを比べるのはやめよう。どちらでも構わない。これが今のスタンス。これが、今の、悲しいまでに不安定な、そして無力な、今のスタンス。

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