火星人と花の色【8】


 「みんな、自分の感情がある振りをしているのさ。本当にあるのは時間の流れと流されるものたちだけであるにも関わらずね」
 シャワーの音に混ざって、聞き覚えのある声が聞こえた。ライオンの声だ。彼の立派なタテガミが濡れていたので、彼の体躯はずいぶん小さく見えた。どうして僕はその声を知っていたのだろう?
「お腹が空くのも、眠くなるのも、全ては時間の問題なのさ。わかるかい? 全ての感情は、感情の振りを演じ続ける。だからそれは脆い。まるで、蟹の関節みたいにね。ちょっとのコツで簡単に折れる。ジ・エンド」

 ねえ、誰と話しているの?
 僕はそこで覚醒した。シャワーの音に混じって、今度は外から、彼女の声が聞こえた。桃の香りがした気がした。
「起こした?」僕は彼女にシャワールームの中から尋ねた。
「恋とは、蟹の関節のようなものだ、って」
「誰がそんなこと言ったんだ?」
「シェイクスピアに決まってるじゃない」

 シャワーを終えて、体を拭き、ブルーのシャツを着た。ドライヤーを使って髪を乾かし、鏡を開けたところにある棚に置いてあるボディーローションを丹念に塗った。やはり甘い桃の匂いがする。浴室から出ると、彼女はテレビを見ていた。どこか遠い国から、どこか遠い国に向けて声明が出されたと、無表情なキャスターが伝えていた。僕にはあまり関係のないことだ、と僕は思った。どこかの国で大統領が変わろうと、どうでもいいことだ。北海道に台風が来て、ポテトチップスや美味しいお酒が作れなくなったりすることの方がよっぽど関心事だ。
 僕はベッドに座ってテレビを熱心に見つめる彼女の隣に座って、コーヒーが温まるのを待った。彼女はラジカセにCDを入れて、僕の知らない曲を流した。そのうちわかるようになるよ、と彼女は言った。おいしいコーヒーだった。彼女はコーヒーを淹れるのが上手だ。コーヒーを飲みながら、僕と彼女は一昨日の2本のウィスキーの空き瓶をどう飾るかという話をした。最後に彼女は、窓際に並べて置いておくよ、と言った。それがいいね、と僕は言った。
 「あなたの話が聞きたい」と、コーヒーの最後の一口を飲んでから、僕は彼女に言ってみた。
 私の話? と彼女は答えたから、そうだ、あなたの過去が知りたい、と答えた。あなたはきっと、いろいろなことを知っているんだ。そうだなあ、と彼女は言って、数分間沈黙した。僕は彼女の足の裏を見ていた。彼女の足は、先へ進むことを拒んでいた。
 「私にはね、沙羅って妹がいたの。彼女はね、かなり控えめに言っても地球で一番素敵で、一番か弱い女の子だった。私の話をするなら、その前に彼女について知らなくちゃいけない」
 彼女はその女の話をしたとき、ずいぶん悲しげな顔をしていたような気がする。僕は昔の恋人と名前が同じ彼女の話に興味を持った。
 「沙羅は君と同い年だった。去年まだ彼女が高校生だった頃、毎晩、麦酒や日本酒やブランデーを飲んで、吐いて、煙草を吸って、セックスして、そんな日々を送っていた。退廃的な夏だった。
 彼女は高校に入った頃から、同じ名前をもつ二人の男と付き合っていたの。名前が一緒で二人は親友みたいに見えた。一人は完全な男だった。もう一人はまるで欠陥だらけの男だった。彼女は完全な男とセックスをし、彼の持つエネルギーみたいなものを、受け取っていた。よく話を彼女から聞いて私は色々なことを知っていたの。沙羅は2人の男との逢瀬の中で大きく損なわれてしまった。彼女は損なわれた中で、悪のエネルギーを受け取り、消化できなかったの。不憫な肝臓はもう限界だった。彼女の喉元まで、その悪意は忍び寄っていた。沙羅は二人の男の媒介となり、そして損なわれた。彼女は世界から逃げるように、18の夏を迎えた。そこでは、退廃的な酒やセックスに混ざって、沙羅の修復が行われた。沙羅の損なわれた何かを修復して、彼女に忍び寄っていた悪意を純化するには、そういうデカダンスが必要だったの。損なわれた彼女の一部を私も探した。でも、完全な修復はできなかった。彼女はその一夏が終わって、もうどうしようもない悪意みたいなものに気づいた。私はもっととろりと生きたい、もっとこってり眠りたい、と彼女は最後に言ったのよ」
 僕は大きく呼吸をして、彼女の言葉に注意深く耳を傾けていた。彼女もまた、大きく息を吸った。彼女は何かを躊躇しているみたいに見えた。僕は口に溜まった唾液を飲んだ。意外に大きい音がして僕は驚いた。

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