見出し画像

第二巻 巣立ち  14、埼玉大学

14、埼玉大学

※この小説は、すでにAmazonの電子版で出版しておりますが、より多くの人に読んでいただきたく、少しづつここに公開する事にしました。

 埼玉大学も私の波長には合っていたようだ。初めのうちは学生運動が盛んで、ろくに授業をやっていなかったが、だんだん収まるにつれて、大学の授業にも身が入ってきた。化学科では、一年生の時から、教養部の授業だけでなく、専門分野の授業も始まり面白かった。大学の授業は、内容が深いのでとても面白かった。初めのうちは知らない事ばかりで驚いた。

 一番ショックだったのは、教養部の化学、いわゆる一般化学の授業であった。俺は、時間の関係で、文科系向きの化学を取った。化学科の人は、理工系向きの化学を取れと言われたのであるが、、、。教養部の化学だから大して違いはあるまいと思ったのである。ところが大きな違いがあった。俺が受けた文科系の化学の教科書は百ページもなかったろう。これに対して、理工系向きの化学の教科書は、ムーア物理化学上・下とあり、それぞれ五百ページを越えていた。

俺は、とても焦って、このムーアの物理化学を上下買って、自分で勉強した。たぶん、入学した年の十二月頃には全部読み終えていた。ところがである、俺はこの教科書、全部で千ページ以上のどの一行も理解できなかったのである。これにはさすがに、ショックだった。高校までの教科書なんかは、大体一回読めばわかる事ばかりだったのとは、大きな違いだった。そして、やたらと意味のない事を難しく書いた哲学書などと違って、わかりやすいように書いてくれてはあるのだ。

その後、俺は、伊山にその事を話したら、東大の先生が「ムーアは難しい、なぜかというと、一行の中に何冊分か本の内容が凝縮されているからだ」と、言っていた。俺はともかく、自分が何もわかっていないことを恥じ、大学の内容は深く、高校程度の勉強では全く歯が立たないことを思い知った。これ以後、大学の勉強以外は、このムーア攻略のために全精力をかけた。

俺は、特別奨学金をもらっていて、はじめは貯金していたが、だんだん馬鹿らしくなってきた。だって、奨学金は使うために貰っているのだろうと思ったからだ。そこで、このムーア攻略のための軍資金に使おうと思った。例えば、ムーアで量子力学の章になったら、日本語で出ている入門書のような量子力学の本を全部買って読む。これらは、ムーアよりはずっとわかりやすかった。全部と言っても入門書などは多くても四、五冊だった。奨学金が無かったらやらなかったけれど、使い途に困っていたところだから、湯水のように使えてちょうど良かった。

そして、ムーアに戻ると、今まで分からなかったことがウソみたいによくわかるようになった。同時にムーアの丁寧な説明に驚かされた。これは二年間ぐらい続いただろう、俺は三学年の終わり頃には、物理化学のどの分野も良くわかるようになった。俺は将来、物理化学の分野で生きていこうと心に決めていた。

 化学科は二十人くらいのクラスで、女の子が七人いた。この女の子たちがクラスのまとめ役になった。このまま四年間を過ごすのだから、ずいぶんと気が合う連中とは親しくなれる。中学や高校でも毎年クラス替えがある事を考えると、これはすごい事だと思う。

俺は群れないでひとり自由に生きたい性格だったが、逆にこの家庭的な雰囲気がとても良かった。後で東大の大学院に行ってから、東大では、人数が多いので同級生かどうかもわからないと知って、ずいぶん寂しい大学時代なんだと、少し気の毒になった。

 化学科には、化学演習室というのが代々あった。研究室の配属が決まらない、三年生の終わりまでの学生がたむろするところだ。俺は、中学、高校とクラブをやっていなかったので、先輩と後輩がこのように入り混じったところが不慣れだった。初めのうちは、あまり行かなかったが、そのうち慣れて入り浸っていた。やがて、三学年の終わりになると配属先の研究室が話題になって来た。

 化学科の先生の中では、守山先生という無機化学の教授にとても魅かれた。授業は、決して上手い方だとは思わなかったけれど、内容は豊富で深く、とても熱心だった。たまに、「人は皆、ストレイシープ、迷える子羊なんだ」と、いうのを聞いた。俺は、四年生でこの先生の研究室を選んで、指導を受けた。

量子化学研究室という物理化学の研究室もあったが、先生は全くダメで、指導を受けるような教師ではなかった。俺は、親父も年だし就職するか大学院を受けるか悩んでいた。守山先生に相談したら、「横田くん、好きな事をやらなければ、人間は力が出ないもんだよ」と、言われて目の前が開けた。

 化学科にはもう一人、名物教授がいた。高分子研究室の福山教授だった。授業中に突然、「本当の空は暗いんだ、晴れた日に高い山に登ると空は暗い」とか、「科学者のやれる事は、ただただ、自然が奏でる音楽に、耳を傾ける事だけなんだ。自然がどんな音楽を奏でているかに、耳を澄ますことだ、それしかできないんだ!」と、叫ぶことがあった。後年、俺は、エックス線結晶解析学の道に進み、道なき道を行かなければならなくなった時、本当の助けになったのは、この福山先生の言葉だった。

 当時、埼玉大学には大学院がないので、他の有名大学の大学院を受験しなければならなかった。それぞれ試験日が違うので、いろいろ受けることが可能だった。俺は、大学院で非平衡の熱力学か反応速度論がやりたかった。本命は、大阪大学基礎工の笛丘先生であった。

大阪の阪急ホテルに一週間ほど泊まり込んで、一次をパスして、二次試験の面接まで行った。面接で「ところで、君はどの先生につきたいのだ?」と聞かれ、「笛丘先生です」と答えたら、「彼は化学科ではなくて化学工学科だよ」、他の先生から「来年だな」という、つぶやきが聞こえた。俺はショックだった。

その後、東工大と東大の理学部化学科と工学部の応用化学科を受けた。東工大は、反応速度の慶井先生を、化学科は触媒の田角先生、工学部は非平衡の瀬野先生を希望していた。一次試験はどれも受かったが、ニ次試験日は全部同じ日で、最終的には東大の応用化学科を選んだ。

 実力は 好きでなければ 人生で 発揮できない 後悔するな

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?