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夢の88オリンピック

 韓国・慶尚北道のある村、田んぼのど真ん中に「愛郷同胞」の記念碑が建っている。生まれ故郷のこの村に日本から多くの寄付をした僕の母方の祖父の名前が刻まれている。かつて韓国を恐怖政治体制を敷き、一方では発展をもたらした朴正熙大統領もこの近くの出身で、いまでも祖父方の親戚の家に行くとかの独裁者の肖像画がかかっている。むこうのおじさんは「この町に高速道路が通ったのは朴正熙のおかげだ」というが、どう見ても村だ。僕を記念碑まで案内してきた、10親等くらい離れている親戚は「家にある肖像画ヤバいっすよね」と笑っている。
 彼と枝分かれした僕の祖父は、その朴正熙政権時代に大韓民国の出先機関である韓国民団で出世した。朴正熙政権を日本から支えた、というと過言かもしれないが、時は70年代、民団内部での保守派と革新派との争いで保守派が主導権を握ったときには、既に権力の座に近かった人だ。その証拠に、後の独裁者から勲章をもらっている。もちろん愛国者としての勲章なのだが、独裁政権を支持していたのは確かなようだ。

 小学校まで山道を歩いて2時間。いまでも残る祖父の生家を見ると、その距離が誇張でないと思い知らされる。百姓の子で唯一の男子。日本植民地時代にきょうだいでひとりだけ教育を受け、のちに日本での進学を志すことになる。いまでも舗装されていない道が残るほどの田舎で「高速道路がある」と胸を張らないでいただきたいのだが、この村に電気やガスなどの文明が来たのは遅いことくらい見ればわかる。これくらいの田舎であることがわかっていたからこそ、何度商売に失敗してもお金を送り続けたのではないだろうか。

 学を求めて日本に来た祖父は九州の炭鉱で働いたという。日本に行けばなんとかなると思って鉱員募集に応じたのかもしれないが、けっきょく祖父はこの日本で学校に行けなかった。日本語の読み書きもじゅうぶんにできたはずだが時代が悪かったのだろう。祖国解放を日本で迎え、どういういきさつがあってかは知らないが大阪に落ち着いた。祖父について母親やおじ、おばたちに尋ねても何も知らない。生前「九州の炭鉱にいた」以上のことをなにも語らなかったのだという。祖母からも詳しい話は聞けず、誰も知らないままふたりともこの世を去った。

 以前、父方の祖父のことを書いたが、彼は大ほら吹きで、なにからなにを信じていいのかわからない人だった。朝鮮戦争のときに密航で来たのだが、それすらも疑うレベルでほらが多い。

 僕が血統を引いている父方の祖父と比べれば、母方の祖母はあまりにも愚直だった。評判を聞くに、悪いことは絶対にしない。酒も煙草もギャンブルも一切しなかった。あの組織で出世し生き残っていくにはカネが必要なはずなのだが、そこを人望だけで乗り越えた。決して在日の人口が多いとはいえない大阪の下町で、朝鮮部落に隣接するように支部の会館が建っている。祖父は地域に住む同胞のために走り回り、地域の「韓国人の代表」として顔役を務めた。区民祭りには「韓国民団」と書いたプラカードに続いて、団員バッジを誇らしげにつけて行進している写真が残っている。

 地域の在日韓国人と故郷のために多くのお金が消えていった。悪いことができないために商売もうまくいかず、祖母からは「民団の活動をやめろ」と何度も言われていたそうだ。富も名声も望まなかったといえばまったくそうではなかったのかもしれないが、祖父亡きあとに聞こえてくる評判はすべて清廉潔白なものである。もちろん血縁者の前で悪く言わないというのはあるかもしれないが、他人どころか身内からも悪い話ばかり出てくる父方の祖父とは大違だ。後から調べても、少なくとも文書や数字からは祖父がなにか悪いことをしていたようには見えない。

 時代や身分を考えてもなぜ社会主義に傾倒しなかったのかがわからない。多くの在日朝鮮人が社会主義の朝鮮民主主義人民共和国に期待していたなかで、決して生まれの身分がいいわけでもないのに、朝鮮戦争の荒廃から立ち上がれず貧困真っただ中で、政治は腐敗していた大韓民国をはじめから支持していた。社会主義が気に食わなかっただけのだろうか。保守派となって北朝鮮を蛇蝎のごとく嫌っていたのは、ただ愚直に大韓民国を信じていたからなのだろうと思う。何かが違っていればそっちを信じていたはずだ。

 1988年にソウルでオリンピックを開催したとき、祖父は泣いて喜んでいたという。民団の仕事で何度もソウルに渡っていただろうが、祖父にとっての韓国や故郷はいまでさえあの何もない慶尚北道の農村で、そこからのオリンピック開催は夢にも思わなかったはずだ。

 祖父は一生の集大成として民団中央本部の選挙に出馬した。民団での活動にいい思いをしていなかった祖母が手伝っていたので母親が尋ねると「じつは癌でもう先が長くないから、好きなことをさせてあげたい」と言ったという。組織の選挙はいろいろなものが飛び交うなかで、クリーンで愚直な祖父は落選してしまったものの、かなりいいところまで勝負できたのだという。最後の役職は大阪府の副団長で、組織のトップまで上り詰めれるかというところで満足して祖父は間もなくこの世を去った。祖母が言った「好きなこと」とは故郷か、組織か、祖国か、祖父にとっては分けられるものではなかったと思うのだが「愛郷記念碑」の文字のとおり、翻る太極旗(国旗)の奥にあったのはあのなにもない農村だったのだろうと思う。

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