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「27年前は、針のむしろ」・・・東西の人気落語家が集合した襲名披露公演。



そこは、27年前とは違って和気あいあいとしたにこやかな雰囲気があった。

「桂宗助改め、二代目桂八十八襲名披露公演」。紀伊國屋ホールにて。

口上の席に並んだのは、柳家小三治、桂南光、桂千朝、桂米團治、
そして現在米朝一門の総領である桂ざこば。
東西のそうそうたる落語家が集合した。


東京の方には馴染みが薄いかもしれないが、「桂八十八」は、上方落語の人間国宝「桂米朝」の最晩年の弟子の一人で、元は「桂宗助」と名乗っていた。
この宗助さんが今回、「八十八」という名前を襲名した。
この「八十八」は米朝師匠の俳号から頂いたもので、
期待の大きさが感じられる。

襲名披露で八十八師匠が演じたのは、師匠の米朝さんも得意とした「はてなの茶碗」。全盛期の米朝師を思わせる熱演で見ごたえがあった。
口上の前に演じた桂米輝、桂米左、桂南光、柳家小三治の皆さんも良かった。
特に小三治師匠は、長時間の正座が出来ないほどの体調で、「道灌」をやりそうに見えて、、、結局やらない。
しかし、その存在感は強烈で、いるだけで楽しい。落語をやらなくてもいつまでも見ていたい、と思わせるオーラのようなものがあった。


さて、
冒頭で「27年前とは違って和気あいあいとした」と書いたのは、
今回と同様に東京と上方の落語家のお歴々が揃う襲名披露を
27年前に、私が見たことがあったからだ。

その時に襲名したのは、今回も口上を述べ一席披露した桂南光(3代目)師匠。(旧名桂べかこ。桂枝雀の弟子で、桂米朝の孫弟子になる)

今回の席で南光自身が、「27年前は大変だった」と語った通り、
桂南光襲名披露東京公演(芸術座)の口上は実に緊張感があった。

口上に並んだのは、

桂米朝、桂枝雀、桂小南(2代目)、柳家小さん(5代目)。
当時の東西の落語会を代表する人気者、大物師匠ばかりである。

しかし、その時、私が見ている高座の上には奇妙な緊張感があり、
落語芸術協会の桂小南師匠と落語協会の柳家小さん師匠は一度も目を合わせる事が無かった。小さん師匠に至っては笑顔一つ見せなかったのだ。


当時、東京落語の協会の軋轢などを知らなかった若造の私は、

「何だろう。このピリピリした東京の人々は?」

と思ったものだ。一方で米朝師匠が、「まあ。ええがな」
と言っているように泰然としているのが印象的であった。

小さん、小南の両師匠が同席したのは、
元々「南光」と言う名跡が、
この時口上の席にいた「2代目桂小南」の
先代である「初代桂小南」の
師匠である「桂仁左衛門」が名乗っていたもの(この人が2代目桂南光)だから。
(ややこしくてすみません)

その後「2代目桂南光」は東京に活躍の場を移し、
当時の「2代目桂小南」に繋がる流れになっていた。

それで、「べかこ」に「南光」を継がせるにあたり、
東京で「南光」の流れにいる「2代目桂小南」と
もう一つの落語協会の顔「柳家小さん」の両師匠に
口上の席に付いてもらったということであろう。

詳細は不明だが、すでに大御所で、東京鈴本演芸場で独演会なども行っていた米朝師匠が、南光の東京での活躍を視野に入れて、二つの協会と話を付けたのではないかと、私の回りの上方落語ファンの間で、一時語られていた。

*もし当時の事に詳しい方がいらしたら、お教えください。


ところが、「27年前は大変だった」というのは、
この口上だけの事ではなかったのだ。

南光師匠が語るところによると

桂南光襲名披露公演が終わった夜、祝賀パーティの席に
「もう小さんは帰っているだろう。」と踏んだ立川談志師匠が祝いに訪れ、
まだ帰っていなかった小さん師匠と会場で鉢合わせ。
パーティ会場は一触即発の雰囲気に包まれたらしい。


それに比べれば、実に平穏な襲名披露公演であった。

いずれにしても、落語は聞くだけで心が晴れ晴れとしてくる。

これからも、落語の席は、「いつまでもここに居たい」と思わせる空間で
あってほしいと願っている。


*順不同、敬称略にて失礼いたしました。

                       おわり






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