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10分日記 2021.9.7 めんどくさい病

 私は今、めんどくさい病にかかっている。言わずと知れた、何もかもが面倒になってやる気が起こらなくなる病だ。
 あれだけハマってたヨガを、肩こりがあるにも関わらず、今日は先延ばしにした。やったらやったで気持ちいいはずなのに、めんどくさいと言い訳をつけてやらない。これを病気と呼ばずに何と呼ぶのか。

 面倒だといいながらも、小説だけはちゃっかり書いた。1500字弱ほど。平日にしてはよくやった方だと思う。あらかじめ何を書くか頭の中にイメージができていただけあって、短時間でさくっと書けた。(質は置いといて)

 そういえばどっかで読んだんだけど、アイデアが思いついたからといってすぐに本文を書き出したり、プロットを書いたりするのはやめた方がいいと誰かが言っていた気がする。一本の映画のように、小説のストーリーが頭の中で最初から最後まで再生できるようになるまで頭の中で繰り返し、それから本文を書くのだと。
 個人的には良いやり方だと思うんだけど、ひとつ問題がある。頭の中だけで筋の通るストーリーを描き切るのは難しい、ということだ。そう思うのは自分だけじゃないはず。普通の映画でさえも筋道立てて理解するのが難しいのに、自分で一から頭の中だけで物語を築き上げられるわけがない。

 自分の場合、書きたい小説のジャンルはミステリやSFに偏っているので、緻密な設定の上でしか成り立たない部分が結構ある(他のジャンルも同じかもしれないが、書いたことがないのでよくわからない)。本文と直接関係のない設定まで、できるだけ緻密に考えるようにしている。○月○日の月の満ち欠けはどうだとか、列車のダイヤがこうだからこういうシチュエーションはありえないとか、○年○月○日の星の位置はどうだとか……。以前書いていた『インサイド・アウト』は、本文中に月や星が何度も登場するんだけど、月の満ち欠けや星の位置に矛盾がないように慎重に検証していた。他にも見えない設定を立てて、伏線を貼ったまま、あえて伏線回収しないものもあった。
 あれはさすがにやり過ぎたと思うし、意味があったかどうかも疑問なので、今では少し手を抜くようにしているんだけども、何が言いたかったかというと、繰り返しになるが、複雑で長い話をイメージ化するのは大変だということだ。
 それでも、頭の中で再生できるくらいまで考え抜くことは大切だとは思う。実際に、頭の中でシーンが出来上がっているところはすぐに書けるので、パソコンの前で腕組みして悩むより、先に脳内でシーンをすべて作り上げてしまってから書き出した方がいいんだろうなと思う。

 まあ、こんな無理のある考えを全面的に受け入れようとしていることが、めんどくさい病を患っている確固たる証拠なのである。

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