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私たちが結婚して2のn乗日後

 朝起きて、寝息を立てているダーリンにキスをして、こんがりトーストとブルーベリー入りのヨーグルトを食べて、家を出る。

 仕事を終え、家に帰ると、ゆっくりお風呂に入って一日の疲れを取る。それからダーリンが作っておいてくれた夕食を食べて、もちろん、ダーリンとふたりで床に入る。

 翌朝、またダーリンにキスをして、今度はヨーグルトに国内産のハチミツを入れて、よくかき混ぜて食べる。

 ずっと追い求めていた、平凡で平和な暮らし。だけど日々は無情に過ぎていく。歳を重ねれば重ねるほどに、時間の経過感覚は加速度的に増していく。


 私たちが結婚して2の13乗日後、ダーリンは亡くなった。思っていたよりも早い死だった。私の好きだった彼の喉仏も、鎖骨も、腰骨も、火葬炉の中でいっさい跡形なく燃え崩れた。どこの骨を構成していたのかもわからない、灰色の粉だけが残った。

 私たちが結婚して2の14乗日後に、私は死んだ。ひとりぼっちだったけど、ひとりぼっちではなかった。だって、愛しのダーリンが、いつでも心の中にいてくれたから。

 痛みはなかった。悲しくもなかった。むしろ心は満ち足りていて、万能感すら覚えていた。

 たしかに私は死んだ。死んだはずだった。それなのに、なぜか意識だけはあった。こうやって思索に耽ることができた。外界の刺激を五感として受容し処理することはできなかったけれど、今までにない第六から第十の感覚をもって世界の移ろいを認識できた。

 そして私がいない世界でも、時は淡々と過ぎていった。

 私たちが結婚して2の20乗日後、人類から性の概念がなくなっていた。人々の生殖器官はかつての名残として体には残っていたが、その機能はとうに失われていた。必然的に、人類から結婚の概念がなくなった。ヒトは単独で暮らし、事故などで肉体を著しく損傷しないかぎりは永遠に生きられるようになっていた。

 私たちが結婚して2の33乗日後、地球がなくなった。寿命を迎え、巨大化した太陽が、地球を飲み込んでしまった。地球だけでなく、水星、金星、火星までもが、宇宙の塵と化した。

 太陽も地球も無くなったことで、私は日にちを正確に数えることができなくなった。それでも、今まで通り時間を数え続けようと思った。時間感覚はまだしっかりと記憶に刻み込まれていた。

 私たちが結婚して2の40乗日後。それまで膨張を続けていた宇宙が、膨らみすぎた風船が割れたかののように、突然、はち切れた。空間が広がりすぎたことによって外側との間を隔てていた膜が破れたのだ。それまで保たれていた宇宙の均衡は一瞬で崩れ、その外側にある何もない時空間に一気に飲み込まれていった。

 それでもまだ私の意識は残り続けた。すべてが消滅し、存在や無という概念すら無用と思われる状態の中でも、間違いなく《私》は存在していた。

 それまで数えていた時間が、なぜだか急に数えられなくなった。

 すべてが無に帰したことで、時間そのものがもはやまったく意味を成さなくなったのかもしれない。

 どのくらい時間が経ったのか、もう私にはわからなくなっていた。

 私たちが結婚して2の何乗日が経過したのだろうか。

「ねえ、あなた」

 何もない、静寂の音さえも聞こえない虚無の中で、誰に届けるでもなく、声にならない声を出した。

「もうそろそろ、いいよね」

 当然、返事はない。

 無というものがどんなものか未だに理解できていないけれど、それが死よりも孤独なのは間違いないだろう。何も認識できず、認識しうるもの自体も存在しない世界に取り残された私には、この孤独をただ受け入れることしかできないのだ。

 かつてともに歩んできたあの人の顔は、もう全然思い出せなくなっていた。でも、聴いているだけで脳が洗われるような、心地良い声音だったことはまだかろうじて覚えている。

 ふと、何かに包み込まれるのを感じた。実体を持たず、五感を失ったはずの私の身体を、あたたかいものが包み込んできた。

——ふたりで過ごした日々の価値は、指数関数的に増加していくんだよ。

 あの日のプロポーズの言葉が蘇った。恥ずかしげもなく言うあの人の台詞を、「意味わからないんだけど」と私は誤魔化して笑ったんだった。その言葉を、今、何度も何度も反芻する。

 時間を数えるのをあきらめたのは、私がその意味をようやく理解したときだった。

(おわり)

※補注

2の13乗日:8,192日(約22.5年)
2の14乗日:16,384日(約45年)
2の20乗日:1,048,576日(約2872年)
2の33乗日:8,589,934,592日(約86億年)
2の40乗日:1,099,511,627,776日(約1兆年)

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