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止まれ (文舵練習問題 第1章-①)

 いつも通り7時ちょうどに家を出て、駅へと向かう細街路の十字路に差し掛かったときだった。〝止まれ〟の標示がある白線で少しも減速することなく突っ込んできた黒いワゴン車に私は撥ねられた。ゆうに五メートルほど吹っ飛んだのに、なぜか無傷だった。

 運転手は私と同じ40代くらいの男だった。短髪だが清潔感がなく、髭は剃られているはずなのに生え立ての芝生のように青々としている。スーツなのにワイシャツがスラックスから大きくはだけていて、運転マナーどころか身だしなみまでだらしない。同じはだけるでも、ブルドッグの皺のはだけかたの方が遙かに上品だ。
 車を降りてオロオロし始めた男に、私はガツンと言ってやった。
「どうして止まらないんですか?」
 目の前の哀れな男は謝るどころか、何のことかわからないといった面構えだ。
 なんかむかつく。
 今度はわざと声に棘を添えてみた。
「そこに〝止まれ〟ってありますよね。車は白線の前で一度止まらないといけないんですよ。教習所で習わなかったんですか?」
 すると何を思ったか、男は開き直るように半笑いで言い切った。
「〝止まれ〟で止まる人なんて、この世にだーれもいないっすよ」
 呆れて何も言えないとは、まさにこのことを言うんだなと思った。
 自分の問題を世間一般的な問題に置き換えただけじゃない。この世界に〝止まれ〟で止まる人なんて一人もいないとまで言い切った。どこから来るんだその自信は。
「私は止まりますよ」
「またまた、ご冗談を」
「本当ですよ」
「そんな人、今まで見たことないですよ」
「私はあります」
「だとしても、世の中にはいろんな人がいますからね。ほら、今って、多様性を尊重する時代って言うじゃないですか。知ってます? 今の時代、一つの価値観で物事を判断するのはダサいんですよ」
 よくもまあ、口が回ること。
 可哀想なことに、口が良く回るわりには話の中身はすっからかんだ。すっからかんの助。こいつのことは、これから心の中でそう呼ぶことにしよう。まあ、金輪際会うことはないと思うが。というか会いたくないし。
「あら、論破されて言い返せなくなっちゃいまいたか? ……って、なんだよ」
 得意げに追い打ちをかける男の肩を、後ろからとんとんと叩く人物がいた。
「もうその辺にしたら?」
「いいところだったのに、邪魔するなよ」
 揃いの指輪をしていることから、どうやら彼の奥さんらしい。助手席に乗っていたようだ。
 このまま引き下がってくれるなら、こちらもすべての不満を呑み込んで引き下がろうか。
 そう思った直後、女が放った言葉に私は思わず耳を疑った。
「頭が悪い人と話しても、時間がもったいないだけよ。いいから帰りましょ」
 再び呆れてものを言えないでいるうちに、二人は車に戻って、何事もなかったかのように走り出していってしまった。
 気分が悪くなった私は、急遽、会社に休みの連絡を入れた。

 翌朝。
 昨日と同じ道を歩いていると、昨日の男が例の十字路のところに立って、私の方をにらみつけていた。
「おい。お前。お前なんだろ」
 男はずいぶんとご立腹の様子だ。
 私は淡々と言った。「私はお前という名前じゃありませんし、あなたにお前呼ばわりされる覚えもありません」
「くそ」と男は悪態をついた。「お前なんだろ。俺の車に傷つけたやつは」
「どうしてそう思うんですか?」
「どうしてって、昨日の復讐でお前がやったとして思えないだろ」
「復讐っていう言い方をするってことは、悪いことをした自覚はあるんですね」
「いや、俺は別に悪いことはしてない」
「じゃあ、私も悪いことはしていませんよ。仮に私がやったとしても、世の中にはいろんな人がいますからね」私はさらに追い打ちをかけた。「そういえば、昨日私に面白いことを教えてくれた人がいましてね。どうやら今の世の中、多様性を尊重する時代らしいんですよ。まあ、私は許しませんけどね」
「俺だって許さねーよ。だから車の罰金払え」
「そうですか。わかりました」私は笑顔で言った。「罰金払いますので、一緒に警察行きましょうか」

 その後、任意保険に入っていなかった男が本当の意味ですっからかんの助になったのは言うまでもない。

(完)


※今流行らしい、ル=グウィンの『文体の舵をとれ』の練習問題(文はうきうきと)をお題として書いた小説です。お題に沿れたかどうかはさっぱりわかりませんが(笑)


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