3/24 ピアノと歌と恨み

今日も暗いです。ジメジメ。とくにカビが生えてます。音楽の経験の話です。

中学生活3年間、合唱コンクールという(悪魔的)行事でピアノの伴奏を任されていた。

1、2年生の時の音楽教師は途轍もない基地外(以後基地外と呼称)だった。こいつのヤバさを伝えるのに十分であろうエピソードをひとつ。

同級生の女子で吹奏楽部員だった子が社会の授業で内職をしていたところをたまたま教室横を通りかかった基地外によって見つかってしまう。真面目に授業を受けていないと知った基地外は怒り狂い、自分のもつ授業でないにも関わらず教室に侵入してその子の引き出しの中身を2階から中庭にぶち撒けてしまった。

今なら一発で首が飛びそうなトンデモ事件だが、当時はそういった体罰がまだギリギリ許されるくらいの瀬戸際で、それなりに教師側にパワーバランスが偏っていた時期だったと思う。

さて、俺もまたピアノの伴奏という立場でその基地外の世話になってしまった。

合唱の伴奏はピアノの経験者の中から選ばれるのが慣例だったが、俺のクラスには俺含め3人の経験者がいた。どういう流れでそうなってしまったのか今はもう思い出せないが、他の2人はなんとかその役割から逃れ、俺にだけそれが回ってきた。それが3年間あった。

合唱コンクールがある時期に向けて夏休み明け(俺がいた某県の夏休みは非常に短く8月中旬までしかなかった)には音楽の授業で合唱の練習が始まる。

言うまでもないことかも知れないが、合唱における伴奏というのは基本的に何があっても止まってはならない。バンドにおけるドラムのようなもので、全体の進行を支えるなければならない重要な存在である。

授業中の練習では基地外による歌の指導だけでなく、伴奏者への心身的拷問がセットだった。お気に入りの生徒に対しては極めて優しかった。明らかに贔屓をしていたが、俺はその基地外のお眼鏡には叶わなかったらしい。

夏休み明けの授業練習では何度も失敗をした。どんなに練習をしていても、基地外の敷く暴政下では失敗したら怒鳴られるというプレッシャーが付き纏っており、結局俺は耐えられずに大きなミスを連発した。

ミスタッチなんかで伴奏が止まろうもんなら容赦なくクラスメイトの前で罵詈雑言を浴びせられた。あの時期俺に尊厳はなかった。人生であれ以上に怒鳴られた経験はない。

だから本当に死ぬ気で練習した。だからこそあいつの鼻を折ってやりたかったし、クラスメイトにも努力を認めてもらいたかった。何度やってもうまくいかないフレーズがあると癇癪を起こして一人で暴れ出し、泣き喚いたり壁を殴ったりしていた。押しつけられた役割だったがなんとか周りを見返してやろうと出来ないなりに努力した。

あの基地外に何度恥をかかされたかわからない。人前で怒られることの経験の辛さはどんなものにも勝る。



3年生に上がった時、基地外は別の学校へ異動となり(この年で異動出なかった場合、基地外を追放するために吹奏楽部はボイコットを起こすつもりでいたという噂もあった)死ぬほど優しい音楽教師が我が校へやってきた。

※打ち消し線部は内部の人いわく初耳なので俺の記憶違い、忘れてください)

しかし、基地外がいなくなったからといって伴奏のプレッシャーから解放されたかというとそんなことは一切ない。俺が合唱コンクールとかいう親や教員のオxニー行事のために2年間味合わされた苦しみは、ベトナム帰還兵のPTSDに相当していた。合唱コンクールの時期が近づくにつれて本当に日々憂鬱であった。

3年の合唱コンクールが終わってからはピアノの椅子には座ろうと思わないし、合唱コンクールというイベントは俺の中で極めて不快な存在になった。

さて、この3年間の苦しみの結果得られたものはなんだったか。誰に褒められるわけでもなく、認められるわけでもなく、押し付けられた役割を血反吐を吐くように耐え切った果てに何が与えられたのかと言うと、虚無そのものだった。

努力をしたからには誰かに認められたかったが、クラスメイトに認められる訳でもなかった。基地外に怒鳴られて一人憂鬱だった時に声をかけてくれる友人は1人もいなかった。

クラスの中で浮いていたとかそういうことは全くなく、むしろ普段は仲のいい人間が沢山いた。でも俺がしてきた伴奏に対する努力が報われることは本当に一切なかった。これが実に悔しくて情けなくて仕方がなかった。

映画セッションのように、ドラマティックな仕返しをすることもついぞ叶わなかった。


辛い経験も時間が経てばいい思い出と言う輩がいるが、中学3年間の伴奏経験が美化されることは一切ないし、今後美化することもない。

いつか同窓会でこの話題が出るかも知れないが、当時クラスメイトたちがどう思っていたかなんて俺はもう知りたくもないし思い出したくもない。今慰められたってもうなんとも思わない。当時の俺に声をかけてくれる人がいたらどれだけ救われたことだろうか。

このブログはこの思い出を切り離すべく記したつもりだ。


ピアノが嫌いになっても音楽のことまで嫌いにならなかったのは不幸中の幸いと言うやつかもしれない。今の俺を構成してくれるもので中核は歌にある。one ok rockやqueenに出会えてなかったらもう一生音楽に触れることはなかったのだろう。


高校の時所属していたクイズ研究会のイベントで初めてカラオケに行った。ピアノで友達に褒められたことは本当に一度もなかったが、歌を他人に初めて褒めて貰えた。

初めて音楽で人に褒められて本当に嬉しかった。俺のことを認めてくれた友達が出来た高校大学の生活はそれまでの陰鬱としたものよりはだいぶマシなものになった。

だからこそ今、自分のオリジナルバンドで作詞をして、歌を歌ってということができている。そういった意味では基地外の経験からの流れが生きているかも知れない。でもあの基地外に感謝することはない。絶対に許さない。

KRS!!!

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