見出し画像

‪二十歳過ぎてある日突然将棋にハマったおたくの話②‬

※「将棋教室に通って指し始めてみたよ」編です。予定ではひと段落くらいで済ませようと思っていた内容ですが、先日、将棋の森を主催し、講師を務めている高橋和先生が東京将棋記者会賞を受賞されたことを受け、かなりボリュームアップしてお届けします。2というより1.5に相当する内容で、当時のことを思い出しながら書きました。森はいいぞ。


生まれて初めて「将棋教室」というものに足を踏み入れることになったわたしは、どえらく緊張していた。

将棋の森は吉祥寺にある。まず、吉祥寺という街からして完全にアウェイだった。埼玉生まれ埼玉育ち、深谷ねぎはその辺に自生しているのを引っこ抜いて食べていたし、土を掘れば素焼きのコバトン土偶が出土する土地で育った。
中高は池袋の一貫女子校に通った。池袋といえば住所こそ東京だが、実態は埼玉の植民地であることはどの教科書にも載っている。対して吉祥寺は、絶対に埼玉ではない。自分でも何を書いているのかわからなくなってきたが、吉祥寺は、絶対に、埼玉では、ない。
冗談はこの辺にしておこう。しかし、本当に吉祥寺はアウェイだった。バンギャルとしてのわたしが行く「都内」は渋谷新宿池袋、原宿、お台場、たまに日比谷と九段下。ヅカヲタわたしは日比谷と有楽町(ほぼ同一エリアやんけ)。ドルヲタわたし秋葉原。テニモンわたし水道橋。大学は八王子(実質橋本)。吉祥寺にもライブハウスはあるが、V系バンドはほとんど使わない。知らない街なのである。
中央線ホームからアトレ直通の階段を降り、改札を出て、さらにエスカレータで下って建物から出る。すぐ左を見ると、映画館があって、その先にライフというスーパーの看板が掲げられている。映画館とライフの間にあるのが、将棋の森が当時入居していたビルだった。(現在、将棋の森は移転して、わたしが通い始めた当初とは別の場所で開かれている。)ライフの看板を見た瞬間の安堵といったら! ライフは実家の最寄りスーパーだ。ほっとした。

わたしが申し込んだのは「はじめてshogiotome」という初心者女性限定、全4回の体験コースだった。駒の動かしかたがわからなくても、すべて受講すれば本将棋(81マスの、いわゆる「普通の将棋」のこと)が指せるようになる! というものだ。受講し終えた段階で、希望者はそのままshogiotomeのクラスに編入することができる。
教室に入ると、そこはホームページで見た通りの明るくきれいな空間だった。北欧調のデザインで統一された家具や什器には、はっきりとしたこだわりが感じられた。きちんとプロの手が入った、ディレクションされた空間であることがひと目でわかった。ひとしきり感心していると、続々とほかの受講者が入ってきた。
まずは自己紹介が始まった。順番に、名前と将棋を好きになったきっかけを述べていく。当時は藤井聡太ブーム前夜。将棋を好きになったきっかけとして多く挙がったのは、漫画「三月のライオン」の名前だった。高熱を出して、ニコニコ動で羽生加藤戦を観た人はわたしのほかにはいなかった。

初回の授業はもちろん、駒の動かしかたから。
これはアプリで覚えているつもりだったが、将棋アプリ上での駒は、ルール上動かせるところにしか動かせない。銀は横に動かせないし、桂馬もタップすれば飛べる場所が表示され、そこにしかいけない。
実物の駒には、行ける場所を光って教えてくれる機能なんてついていない。思っていたより頭に入っていないことがわかり、わたしは愕然とした。そういえば、アプリでは龍と馬もタップしてから動ける場所を見てどっちか区別していた。ダメじゃん……。

次の授業で出てきたのは5×6マスの小さな将棋盤だった。使う駒は金銀玉と歩だけ。歩は最初からぶつかっていてスリリングだ。駒が動かせる位置を、お互いに確認しながら進めていく。

そうやって、四週が終わるころにはなんとか将棋が指せるようになっていた。教わったのは原始棒銀。ほかの生徒も同じことを教わっているので、生徒同士で対局すれば自然と相原始棒銀になる。受けかたなんて知らないから、素手でボッコボコの殴り合いである。これがオトメの戦いかたでしてよ。
7六歩3四歩6八銀8八角成!も二回くらいやった。頼むから、一回で覚えてくれ。ちなみにやらかした二回のうち一回は勝った。初級者同士の将棋の恐ろしいところである。
このころは一局指すごとに疲労困憊だ。空調の効いた室内のはずなのに汗をかき、首から上がほかほかと暑かった。だから棋士はみんな扇子を持っているのか? と真剣に考えていた。そういえば、冷えピタをとんでもないところに貼っているひともいたような気がするな。ニコニコで見たぞ。
けれど、脳の普段使っていない部分をフル稼働させているような感覚は快かった。わたしはほとんど迷いなくshogiotomeへの入会を決めた。

そうしてどうにか将棋を指しはじめたわたしだったが、ここでひとつわかったことがあった。それは、「ちょっとやそっと将棋をかじった程度でプロの将棋はわからん」という、冷静に考えればまあまあ当然のことだ。
わたしはニコニコ動画から将棋を見始めて、自分が指せるようになったらプロの将棋をもっと理解できるのではないかと考え、将棋教室の門を叩いた。
けれど率直に言って、いまの自分がやっている将棋が子供のプロレスごっこだとしたら、プロの戦いは最新鋭の戦闘機を使った戦争みたいなものだ。そう感じた。序盤、中盤、終盤、何をやってるのかさっぱりわからない。投了図以下の詰みもわからない。これを書いている現在だって、せいぜいが竹槍である。詰みはヒントをもらえれば見えることも増えてきた。やったね!
それじゃあなぜ、わたしは将棋を指し続けることを選んだのか。端的にいえば、将棋を指すことが、めーーーーーーっちゃ楽しかったからだ。想像の2倍くらい難しかったけど、100倍くらい楽しかったのだ。

教室に通い始めて数ヶ月経ったころのことだ。週末、わたしは意を決して将棋の森の道場に足を踏み入れた。
連盟道場に行く勇気はまだなかったが、森の道場は子供と級位者が多いので、まだハードルが低いように思えた。いくつか手合いをつけてもらって、そのうちのひとりが二~三十代の男性だった。わたしは身構えた。若い男性=超強い、という思い込みがあったからである。怖い。何枚落ちだろう。手合いカードを見たら、平手だった。まじで?
聞けば男性も初級者で、同じくらいの級位だということだった。たしかに対局は白熱した。それはわたしが初めて教室の外で体験した「いい勝負」の将棋だった。お互いの大駒が何回か交換になり、飛び交った。最後はわたしが決定的なミスをして負けた。最後の一手詰まで指して、「負けました」と言った瞬間、悔しさとは別の感情がわあっと湧いた。
「あの、わたし、全然戻せないです、すみません」
「いや、僕も」
お互いにペコペコ頭を下げて笑う。相手も疲れきっているのがわかった。
「一回こっちが角角になって、そっちが飛車飛車になって、また交換したのはわかるんですけど。すごかったですね、こんなに大駒交換したの初めてです」
お互いに駒を戻せないので、感想戦ではなく、単に感想を述べているだけである。
「いや、でもすっごく楽しかったです。ありがとうございます。わたし、こんなに楽しいと思ったの初めてでちょっと感動しました」
言ってから、しまったちょっと気持ち悪かったかな、と後悔した。相手が楽しんでいたかどうかはわからないのだ。ウォーズとかでこの程度の熱戦は何度もこなしているひとかもしれない。でも、そのひとは笑って言った。
「いや、僕もめちゃくちゃ楽しかったです。こちらこそありがとうございました」

顔も名前も覚えていない相手だが(すみません、なかなか人の顔を覚えられないのだ……とくに男性は)、指した将棋のこと、楽しかった気持ちを忘れることはないだろうと思う。いまでも負けがこんで辛くなったとき、思い出すのはこの高揚感だ。
大会に出て、手も足も出ずしょうもない負けかたをすることもたくさんある。けど、たまにあるんだ、級位者なりにいい勝負になる瞬間が。それが楽しいから弱いなりに続けている。いや、負けたら全然、グエーーーーッてなるけどね……。

で、まあ、そこから二年くらいだろうか、わたしはゆるーく観る将と指す将(弱)をエンジョイしていた。特に好きな棋士もできた。佐藤天彦九段と郷田九段である。当時のわたしはアパレル関連会社に勤めていて、(これはいまもそうだが)服が好きだった。なので、天彦先生に着目したのはまずそのファッションからだ。昔の服装や髪型がバンドマンっぽいこともポイントが高く、バンギャル友達に見せても高評価だった。(?)
郷田先生は全てが最高で、これは古事記にもそう書いてある。
静岡で開催された「将棋の日」にひとり遠征もした。なのは並みの勢いで羽生先生の揮毫会チケットが売り切れるのを目の当たりにし、「羽生先生、実質なのはじゃん……」という狂った感慨を抱いたりもした。何を言ってるんだお前は。ところでこのなのは完売ネタ、若いオタクには通じなさそうでとても怖い。
静岡にしろ天童にしろ、将棋で遠征する場所はいままで行ったことがないところばかりで新鮮だった。わたしが好きなバンドは静岡で公演をしなかったし、天童はなおさらだ。もちろんどちらもいいところで、行けてよかった。

将棋はゆるく楽しめる趣味でいいなあ。わたしはこのとき、心からそう思っていた。そう、このときは……。(③に続く)

【次回予告】
おたくは、狂ってからが、本番。


この記事が参加している募集

私のイチオシ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?