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『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』谷川嘉浩著 ご恵投いただきました

先日、古巣の会社からイベントでお招きいただく機会があり、登壇してきた。
その後、懇親会があったのだが、当時の同期(現在はもうお偉いさん)から、

「お前、うちに戻ってこない?歓迎するよ」

という言葉をもらった。もちろん、会話の流れの冗談だ。
そいつも僕が戻ってくるなんて思ってないし、戻るなんて言われても困ってしまうだろう。

だから、「いやいや、無理だって」と軽く返したところ、相手から結構本気な顔で「なんで無理なの?いい金払うよ」とこれまた冗談まじりに言われた。

もちろん、僕も戻る気はないし、戻れるとも思えない。
なのだが、僕はなぜかちょっと真剣に考えてしまった。

なぜ、僕は昔の会社に戻れないのだろうか、と。
何が自分を止めているのだろうか、と。

表面的な説明はいろいろできる。
働き方がどうだとか、自由度がどうだとか、上下関係がどうだとか。
もしくは僕の強みがどうだとか、モチベーションがどうだとか。
でも、そんなことは全て正しくない。

僕には説明のつかない欲求がある。
とにかく自分の知り得ない幅広い知に触れて、咀嚼して、自分なりに定義したい。
そしてそれらをシェアすることを通じて、みんなと楽しく語り合いたい。

言葉にすると、極めて幼稚でセルフィッシュな動機だ。
それが志なのか?と問いかけられれば、「志」なんていう高尚な言葉には相応しくないような気もする。
むしろ、「趣味」というニュアンスの方が正しい。

しかし、僕はキャリアの節目節目で、この意味不明な欲求に突き動かされるように従ってきた。
たとえば、最初に勤めた大企業を辞める時も、グロービスを辞めて独立する時も。
その都度、この幼稚な動機をどう説明するかに苦しんだ。

僕は5年半、1日も休まずにVoicyで毎朝40〜50分の音声コンテンツを発信しているが、「なぜ毎日続けているんですか?」と問われても、合理的な説明は難しい。
もちろん、それらしいことを格好良く言うことはできる。
志のように高尚な説明をすることも可能だ。
しかし、どんな合理的な言葉を使っても、その行為にはフィットする気がしない。
無駄であまりに過剰なのだ。

しかし、この谷川さんからの『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』をいただき、タイトルや帯を眺めるに、この僕の中にある説明できない感情や行為は、本書で言うところの「衝動」と呼ぶべきなのかもしれないと直観した。

精読する前なのでわからない。
しかし、他者が引いてくれた人生のレールのようなものに対して、大事な岐路でいつも外れてきた過去を振り返ると、衝動という言葉のニュアンスはしっくり来るような気がする。

果たしてどうであろうか?
また本書を読み終え、谷川さんと対談する機会を持ちたいと思っている。
その際に答え合わせをしてみよう。

追伸:谷川さんのツイートで、この本の中に僕の書籍が引用されていることを知った。「私の友人である荒木博行さん」と記載されておったぞ(笑)。みんなチェックしよう。

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