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資本主義社会を守るために『資本論』を読み返す

2021年1月のEテレ「100分 de 名著」は、マルクスの『資本論』を取り上げています。


僕は録画してありますがまだ見ていないので、斎藤幸平さんがどういう切り口でマルクスを取り上げているのか、わかっていません。
ただ一つ、この時期にマルクスを取り上げる意義をEテレも感じていつのだと思いました。

マルクスは「マルクス経済学者」と「マルクス教」の人々によって貶められていた部分がある、と以前から考えていました。近代経済学者などの手による、まっとうなマルクス理解はないものか、と思っていました。

僕自身が近代経済学、特に数学を駆使する部分は理解できておらず、不十分な理解ではあるのですが、それでも森嶋久雄、宇野弘蔵、小室直樹、佐藤優、といった方々の本を読む中で、やはりいまでもマルクスは読む価値があるという結論に達しています。

■誰が『資本論』を読んできたのか

『資本論』といえば労働者階級に向けて書かれた本のイメージがあると思います。しかし、本当にそうでしょうか。マルクスの他の著作、たとえば『共産党宣言』などはあきらかに労働者に向けて書かれていますが、『資本論』はそうとは言い切れません。違うと言ってしまって差し支えありません。

なぜなら、当時の労働者階級の人々が読むにしては難しすぎるからです。資本論を読んだことのない人は、試みに『資本論』を開いてみてください。翻訳の問題もあるにせよ、非常に難解なことがわかります。

マルクス本人の意図はともかくとして、結果的に当時の労働者階級の人々では読みこなすことはできませんでした。では、誰が読んだのか。それは広い意味での「資本家層(エリート官僚や政治家を含む)」だったのです。

彼らは『資本論』を読んでどうs考えたのか。おそらくはこういうことです。

「どうもマルクスが言っていることは正しいらしい。このままいくと、資本主義社会は崩壊して、社会は大混乱になり、自分たちはいまの地位から没落する。」

そう考えた彼らは、資本主義を存続させ、マルクスの予言(共産主義革命が起きて、プロレターアート独裁が実現する)が実現しないようにするためにどうすればいいのか、知恵を絞ったのです。

■『資本論』から読み取る資本主義社会とは

『資本論』には 「悪徳な資本家が労働者から搾取するので社会が悪くなる」と書かれているわけではありません。そう解釈する人が左右問わずいるのでおかしなことになるのです。実際に書かれているのは 「資本主義経済で人々が経済合理的に行動をすれば、必然的に大恐慌や窮乏化が起きる」 です。

企業は効率化を図り、利益を最大化することを目指します。これは当然のことで、それをしない企業は資本主義社会の中では生き残れません。そのために、企業は大規模な設備投資をして大量生産を可能にし、商品単価を安くすることで競争に勝とうとしがちです。

さらに、企業の利益の源泉は、労働者が、自分が働いた分以上の価値を生み出す「剰余価値」です。この「剰余価値」だけが企業の利益になります。ですから、労働者の価値を下げる、具体的に言えば労賃を引き下げることで利益を確保しようとします。これも利益の最大化ということから言えば当然のことです。現代でも「人件費の削減」は多くの企業で課題となっていることを見れば、経済合理的な行為だと言えます。

しかし、労働者は同時に消費者です。労賃が下がるということは消費者の購買力が落ちることを意味します。そうなれば商品は売れなくなります。結果として商品は余り、それを製造する生産設備も過剰になります。利益は減り、設備を購入する際に金融機関から借りたお金を返せなくなります。銀行などの金融機関は不良債権の山を抱え、最後には金融恐慌が起こります。

全3巻の『資本論』の趣旨を短く説明するのは困難ですが、単純化して言えばこういうことです。そしてこの一連の流れは、バブル崩壊以降の日本経済を彷彿とさせるものがあるのではないでしょうか。だからこそ『資本論』にヒントを求めたいという気分が起きていているのだと考えられます。

■『資本論』からくみ取ること

資本主義には多くの問題があります。しかし、おそらくはわれわれが生きている間に資本主義のシステムが崩壊することはないでしょう。ろくでもないシステムだ、と毒づいたところで、人類は資本主義よりましな経済システムをいまだ見つけることができずにいます。共産主義の挑戦が失敗だったと明確になった現在、簡単に「ポスト資本主義」のようなシステムを生み出すことも無理でしょう。

だとすれば、暴走してしまいがちな資本主義社会の中で、折り合いをつけて生きていかなくてはなりません。また、資本主義が暴走してしまわないようにするための条件を、外部からでなく資本主義内部から生み出していかなくてはいけないと思います。

そのために、一見すると経済合理的でない行為が必要とされます。20世紀後半まで、世界はそうやって資本主義を守ってきたのです。福祉国家はこうして誕生しました。労使協調路線も、弱者救済のためのセーフティーネットも、所得の再分配も同じです。

社会主義国家が次々と崩壊し、資本主義の勝利が喧伝されることで、こうしたことは経済的不合理は無駄なことだと排除される方向に向かいました。その結果がいまの世の中です。一部の人に富は集中し、格差は拡大し続けています。このままいけば、マルクスの予言が息を吹き返してしまいかねません。

かつてと同じ施策が有効かどうかはわかりません。しかしどんな形であれ、資本主義社会の存続のために、企業にも個人にも 「品位」 を保つことが必要とされると思います。たとえば、CSR(Corporate Social Responsibility・企業の社会的責任)やSRI( Socially Responsible Investment・社会的責任投資)という考え方は、そうした文脈の中から生まれてきました。こうした考えが広まらなければ、資本主義の存続自体に危険が生じます。資本主義よりもましなシステムを見つけられていない我々は、もっとひどいシステムを生んでしまいかねません。

■SDGsの達成を

SDGs(Sustainable Development Goals・持続可能な開発目標)も間違いなく同じ文脈から生まれてきたものです。斎藤さんは『人新世の「資本論」 』の中で「SDGsはアヘンである」と書いたそうですが(苦笑) そう書きたくなる気分はわかりますが、私は違う考えをしています。

経済合理性を最重視する社会では、持続可能な開発は不可能である、との考えは、SDGsが生まれてきた理由の一つであることは間違いありません。だから「経済合理性」から少し距離を置く。経済合理性だけで邁進しない。たとえば、多少高くても地元のよく知った、顔が見える人たちが経営する商店街から物を買ったり、理念に共鳴したNPOなどに寄付をしたり。金銭ではない部分でのリターンを期待することが必要になります。一見、経済合理性から離れた行為こそが、資本主義社会が、ひいては人類が生き残っていくための「合理的」な行動なのだと考えています。

だからこそ、SDGsを達成していくことが必要なのだと考えています。SDGsには危険な面もあるとは思っています。しかし、アヘンのように誰にとっても害になるようなモノではなく、使い方次第では毒にも薬にもなるもので、うまくコントールできれば、絶大な効果を発揮するものだと信じています。

参考図書

『資本論』を読み返す、と書きましたが、『資本論』は難解で読むのは読み切るのは大変です。ですから、

以上、2冊がおすすめです。『資本論』はこの2冊をベースに展開していますから。そしてこの2冊は、労働者向けに書かれたり講演したりしたものですので、『資本論』よりもはるかに理解しやすいと思います。


なおこの文章は、以前、BLOGOS に寄稿したものに、若干の加筆修正したものです。


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