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芥川賞『ハンチバック』を読んだ重度障害者の感想。

『ハンチバック』を読んだ。

市川沙央さんが書いた第169回芥川賞受賞作だ。

市川さんについては、受賞時の記者会見が話題になったことで知っているという方も多いかもしれない。まさに普段は芥川賞を誰が受賞したのかなど、ほとんど気にも留めない私が「市川沙央」なる名前を記憶に留めたのも、あの記者会見がきっかけだった。

先天性ミオパチーという難病を患う彼女自身の思いがこれでもかと反映されていると評されていた『ハンチバック』。すぐにでも読みたかったけれど、なかなか読めずにいた。それは、しばらく海外や国内を旅していたことや、YouTubeでもお伝えしたようにワインエキスパートの資格試験のために時間を割いていたこともあるけれど、どこかこの作品に感情をかき乱されそうで読むのが怖かったという理由も、正直に書き添えておかねばならない。

わかる。わからない。わかる。わからない——。その連続だった。

ネタバレは避けるが、この作品にはひとりの障害者としての、健常者に対する、そして社会に対する強烈な怒りが詰まっている。彼女はそれを「呑気」という言葉で表現している。健常者が当たり前にこなしているようなことも重度障害者にはものすごくハードルが高かったり、そのハードルの高さが「社会が障害者を想定していないから」という理由だったりすることを考えると、その怒りは私にもよく理解ができるし、皮肉も込めて「呑気」と表現したくなる気持ちもよくわかる。

だからこそ、同じく重度障害者である主人公・釈華の気持ちは、苦しいほど理解できる……いや、理解できるなんてものではなく、自分を重ね合わせたり、よくぞ言ってくれたと快哉を叫んだりしながら読み進めた。

一方、私は男性だ。だから、その怒りの表現の題材に「性」を用いたこの物語においては、女性である釈華の心情が理解できなかったり、終盤のあまりに想定外の展開に驚かされたりもした。自分が女性だったら理解できるのかはわからないけれど、少なくとも自分を重ね合わせたりできる心情でなかったのは確かだった。

もちろん、小説の読み方、楽しみ方は、「どれだけ主人公に共感できたか」という点だけではない。それはわかっているのだが、どうしても“重度障害者”という大きなくくりが同じカテゴリーに属するだけに、「ああ、ここは重なるな」「これは理解できないな」と、他の小説を読むとき以上に「主人公と私」の距離感を近づけたり、遠ざけたりしながら読み進めている自分がいた。

ならば。

多くの健常者は、主人公・釈華の心情に、どれだけ自分を重ね合わせることができるというのだろうか。体を自由に動かすことができる健常者に、あれほどまでに嫉妬と憎悪の炎を静かに燃やす釈華のことを、どれだけの読者が「自分ごと」として捉えることができるだろうか。

まずできないだろう。できるわけがない。できてたまるか、この苦しみを。

本当はわかってほしい。せめてわかろうとしてほしい。でも、簡単に「わかった」なんて言ってほしくない。わかってたまるか。本当にわがままで千々に乱れた思いに支配される。

そのとき、ふと思った。

健常者と障害者の、ちょうど間にいる、私の母はどう感じたのだろう。

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