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脱「弾丸登山」のススメ

■はじめに

高山ハイキングシーズンの真っ只中ですね。下界はかつてなく暑い夏になっていますので、少しでも標高の高い世界で過ごしたいものです。

さて、4年近くに及ぶコロナ禍がほぼ終わり、富士山の登山客数も大幅に回復、それどころかコロナ前よりも増加している登山ルートもあるようです。

この状況を鑑みてか、登山道の渋滞や「弾丸登山」の危険性について、改めて情報発信するマスメディアなども多く見受けられます。
しかし、どのように登山すれば危険性を軽減できるのか、明確に発信された情報はあまりなく、中には山小屋に宿泊さえすれば安全だと思い込んでいる人も少なくないようです。

ここでは、富士山に訪れる登山客が、どうすれば危険のリスクを抑えられるのか、その方法を考察したいと思います。
ただし、先に結論を列挙し、その理由について具体的に記述することとします。

●結論

  • トレーニングを積んでいない、かつ高地順応していない状態で、「弾丸登山」をするのは危険

  • トレーニングを積んでいない、かつ高地順応していない状態で、五合目から登り始めて高所で睡眠を取るのも危険を伴う

  • トレーニングを積み、かつ高地順応し、日中に登山をするするのが最も危険性が低い

■「弾丸登山」の定義

公共機関などが発信する情報によると、次のように定義されています。

●富士登山オフィシャルサイト
弾丸登山・・・五合目を夜間に出発し、山小屋に泊まらず夜通しで一気に富士山頂を目指す0泊2日の登山形態

●富士の国やまなし観光ネット
御来光を目的に夜間に富士山五合目に到着し、山小屋に宿泊せずに 一気に山頂を目指す登山行程を「弾丸登山」と言います。

●富士吉田市
『弾丸登山』とは、富士山五合目を夜間に出発し、山小屋に泊まらず夜通しで一気に富士山を目指す登山形態です。

山頂からの御来光

いずれの機関が発信する情報も、おおむね同様の定義であるといえます。

なお、富士山の登山客の多くは、日頃から登山を行っているハイカー(登山者)ではなく、富士山に限って登る観光客であると思われますので、本記事ではその前提に立って記述することにします。
「弾丸登山」の危険性を訴える各機関も、同様の前提に立っているのだろうと推察します。

■「弾丸登山」の危険性

上記のとおり「弾丸登山」の定義は明確である一方で、具体的な危険性やその根拠について、はっきりと記載している情報は意外にも少ないです。
私がネット上で見つけられた公共機関などによる情報は、「富士の国やまなし観光ネット」のチラシだけでした。

https://www.fujisan-climb.jp/b2rg1t00000000pd-att/BulletClimbing_Jp.pdf

このチラシでは、「弾丸登山による睡眠不足で体力が低下し、 高山病のリスクが高まります。」と記載があります。
睡眠不足が高山病のリスクを高めるという研究結果や根拠について、私は目にしたことがありません。しかし、睡眠不足が体調不良や不健康を招くという一般論に照らして、高山病のリスクが高まるということは十分考えられると思います。

このほか、「弾丸登山」が危険な理由として、麓から登るときと異なり高地順応ができていないことも危険性として挙げられるでしょう。
普段、登山を行なわず高地順応ができていない人が、自動車で五合目まで“ワープ”してすぐに登り始めるのは、高山病のリスクが高くなるのは当然です。
さらに、夜間の高所は、特に低温になることも危険性として挙げられます。

■脱「弾丸登山」の手段

では、「弾丸登山」の危険性を避けるために、どのように登山をすれば良いのか考察したいと思います。

ところが、ここで論理展開として難しいのは、「安全に富士登山をするには、普段から十分にトレーニングを積み、高地順応してから登るべきだ」「そもそも、玄人のハイカーやファストパッカーなどのように、麓(0合目や一合目)から登れば良い」など正論を言い切ってしまえば、話はそれで終わってしまうことです。

しかし、先述のとおり本記事では、富士山に限って登る観光客を対象とすることを前提とします。
すなわち、失礼な表現になりますが、「普段から十分にトレーニングを積んだり、高地順応したりしていない(し、今後もやる気はない)が、富士山頂まで行きたい」という観光客が、どうすればより安全に五合目から登れるのかを考察します。

●山小屋に宿泊すれば安全なのか

結論から述べますと、登山客の体質や登山時の体調、宿泊する山小屋の標高によっては、危険な状態になります。
これについては、「登山の運動生理学とトレーニング学」(山本正嘉 著、東京新聞 2016年 発行)をもとに理解することができます。本書の中では、高所登山における酸素欠乏について、SpO2(経皮的動脈血酸素飽和度)を測定し分析した内容が記述されています。

SpO2は、動脈血のヘモグロビンに何%の酸素が結合しているか判断するための値であり、標高0mでの値は100%に近くなりますが、標高が上がるにつれて低下する傾向にあります。
SpO2は、コロナ禍において一般的に話題となりましたので、ご存知の方も多いと思います。

医療においては、SpO2が90%を下回ると呼吸器不全、75%を下回ると虚血性の心疾患(心臓に酸素や栄養が十分に供給されない状態)、50%を下回ると昏睡状態と判断されるそうです。

「登山の運動生理学とトレーニング学」では、睡眠時のSpO2は安静時よりも低くなることが示されています。
10名の男性を受験者とする実験によると、睡眠時のSpO2は、標高1500mで92%、2500mで87%、3500mで74%という結果になっています。3500mでは、50%まで落ちた受験者もいたそうです。
なお、各受験者の運動能力や高地順応状況については示されていません。

山小屋は七〜八合目に多く連なる

富士山で山小屋が多く集まっているのは、標高2600m〜3400mです。山小屋に宿泊することが安全であるとは、一概にいえないことが分かるかと思います。
より低い標高で宿泊すれば当然リスクは減りますが、登山客に人気の吉田ルートと富士宮ルートでは、標高の一番低い山小屋でも標高2200〜2400mであることは考慮すべきです。「酸素欠乏症等の防止―特別教育用テキスト― 第5版」(中央労働災害防止協会編、2021年 発行)によると、標高2200mから酸素欠乏症の症状が一般的に見られると示されています。

ここで、補足的に私の経験をお伝えしたいと思います。
私はこれまで富士山に20回登っていますが、そのうち麓から登ったのは18回(全て日中の日帰り)、五合目から登ったのは2回(いずれも山小屋泊)です。
麓から登ったときは高山病の自覚的症状は一切ありませんでしたが、五合目から山小屋に宿泊して登ったときは、いずれも起床後に空気の薄さとともに脳のはたらきの鈍さを自覚したり、登頂の前後から強い疲労を感じたりしました。

●日中に登れば安全なのか

日中であっても、標高の高い富士山では、荒天時には低体温症になる危険性があります。また、高所は日差しが強く、富士山の溶岩は日光を浴びると熱を持ちやすいですので、晴天時は熱中症の危険性もあります。
しかし、日中の登山ならば、低体温症のリスクは夜間に比べれば格段に低く、宿泊者がいない時間帯は山小屋の利用がしやすく、撤退を決断した際は下山道を見つけやすいなどの利点があると思います。

●ゆっくり登れば安全なのか

この点については、2つの観点から説明できると思います。
1つ目は高地順応についてです。時間をかけて標高を上げることにより、高地順応の効果をたくさん得た状態で高所に入ることとなり、高山病のリスクを軽減できると思います。

2つ目は、酸素欠乏の抑制についてです。先ほど取り上げた「登山の運動生理学とトレーニング学」では、激しい運動時もSpO2が減少することが明らかにされています。睡眠時の測定と同一の受験者による実験において、激しい運動時のSpO2は、標高1500mで90%、2500mで84%、3500mで75%という結果になっています。
何をもって「激しい運動」であるかは曖昧ですが、トレーニングを積んでいない人ほど、登山という行為において簡単に「激しい運動」の領域に到達してしまいます。

また、長時間の運動や登山に慣れていない人ほど、どの程度のペースが自分にとって持続可能なものであるのか、分からないと思います。
遅すぎると思うくらいのペースで登り始めることが、安全に登山をすることにつながると思います。
ただし、あまりにもペースが遅すぎると、身体が冷えて低体温症になったり、低酸素の領域にいる時間が長くなることで体力を消耗することになりますので、注意が必要です。

■高地順応の重要性

上記のように、脱「弾丸登山」の手段を検討しましたが、高所という特殊な場所で安全に一定時間過ごすにあたり、やはり高地順応は重要です。
そもそも、山小屋に宿泊するか否かにかかわらず、高地順応をしていない状態で五合目から登り始めることが、危険な行為なのです。

ここでは、高地順応の重要性の根拠として、私自身の経験をもとに述べたいと思います。

先ほど、激しい運動時もSpO2が減少し、標高3500mでは75%になったという実験結果があるとお伝えしました。
一方で、私が2018年に富士登山競走(標高770mの富士吉田市役所前スタート、標高3715mの吉田口ルート山頂の久須志神社前フィニッシュ)のフィニッシュ直後に、山頂で大会医療班の方にSpO2を測定してもらったところ、下界での安静時と変わらない98%でした。

これまで私が富士登山競走の山頂コースに出場した際は、いずれもレース当日に向けて高地順応を綿密に行いました。
具体的には、4月と5月に標高2000m前後の山に複数回登り、6月に入ったら八ヶ岳(標高2899m)に麓から登り、その後は富士山に麓から2回登って、7月下旬のレース当日を迎えるというものです。

事前に高地順応をしっかり行っておけば、山頂まで全力で駆け登っても、血中の酸素飽和度は下界の安静時と変わらず高山病にもならない、という事例であるといえます。

■おすすめの高地順応の方法

運動能力を向上させるためにトレーニングを行い、その効果を得るには一定の期間が必要です。一方で、高地順応については1回行うだけでも、ある程度の効果が得られることが一般的に知られています。
そこで、おすすめの高地順応の方法をお伝えします。

それは、山頂を目指す前日に、五合目以下の領域や御中道をのんびり散策することです。
富士山は五合目以下には美しい樹林が広がり、多くの種類の花に出会うことができます。また、溶岩流の跡、寄生火山、側火山の火口なども随所にあり、巨大な火山である富士山特有の地形を見ることもできます。
さらに、吉田口ルートと須走口ルートには、かつての富士山信仰の遺構も多く残されています。

富士山の樹林帯

このような富士山の自然や文化に触れながら、いつの間にか高地順応ができるので、一石二鳥ではないかと思います。
せっかく富士山を訪れたのですから、前泊をして1日多めに過ごすのも得策ではないでしょうか。
登山前日に体力を消費したくないのであれば、運動はほどほどにして、腰を下ろして休憩していても良いのです。ただし、時間が許すのであれば、五合目以下でもできるだけ標高の高いところで、ある程度長い時間を過ごすようにしましょう。

■おわりに

これまで「弾丸登山」や脱「弾丸登山」について記述してきました。
「弾丸登山」については、公的機関などによって定義付けられ、危険であると発信されています。それにもかかわらず、何が危険であり、どのように登るのが安全であるのかという情報発信や、そもそも事前にトレーニングを積みましょうといった啓蒙や啓発が積極的に行われていないのは、おそらく商業的な理由によるものでしょう。
そこで、何ら利害を抱えていない立場の人間として、「弾丸登山」に関する情報を整理したのが本記事です。
今年の夏山ハイキングシーズンはまだ続きますが、富士山においても、それ以外の山においても、事故なく安全に登山が行われることを願っています。

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