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あれから1年

「令和2年7月豪雨」
のちにそう名付けられた水害が、
ちょうど一年前の7月4日
私が生まれ育った街を襲い、
見慣れた故郷は壊滅的な状態になりました。

熊本県南部に位置する人吉球磨地方は、
周りを360度山に囲まれた典型的な盆地で、
そこを貫くように流れる日本三大急流のひとつ
「球磨川」が激しく氾濫しました。
これまでにも台風直撃などによる大雨で度々氾濫していて、
増水し濁った川の様子も、地元の人たちにとっては、
どこか〝見慣れた〟光景でした。
しかし、今回はそれを遙かに上回る、
想像を絶する水量が襲いかかってきたようです。

しかし、
「きたようです」と書いたように、
私自身はその現場にはいませんでした。
遠く離れた東京の安全な場所から、
朝から引っ切りなしに流れるニュース映像に
ただ釘付けになっていました。
一変した故郷の街を見ても、
当初は、どこか他人事のような
冷静な目で見つめていました。
やがて、地元にいる友人や知人たちとの
グループLINEで安否情報や
各地の被害状況が段々わかってきて、
ようやく頭が追いついてきたのか、
急に体が熱くなってきました。

私の実家は球磨川から200メートルくらいで
割りと近い位置にありました。
半日ほど携帯もつながらない状態でしたが、
地元に住んでいる親戚から連絡をもらい、
この日は家を空けていた状態だったので
家族の無事は確認でき、
ホッと胸を撫で下ろしました。
しかし、実家のある町内には
近づけない状況だったようです。
位置的に被害の大きい地域だったようで、
後から調べたところ、
3メートルほどの高さまで水が来て、
平屋だった我が家は
ほとんど屋根まで浸かってしまい、
表は形が残っていましたが、
中はほぼ全壊の状態でした。

実家を目の当たりにして言葉を失う

被害を受けてから一週間後に
ようやく実家の様子を見に帰る事が出来ました。
故郷の街は、ニュースで見るよりも
壊滅的な被害を受けていました。
道路の脇は瓦礫の山で、慣れ親しんだ神社は壊れ、
橋は寸断され、自衛隊の車列が通り、
どこを見ても被災地でした。

そして、実家に到着しました。
話を聞いて覚悟はしていましたが、
実際に目の当たりにすると、
想像を遙かに超え、見るも無惨な状況でした。

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さすがにショックで最初は言葉を失い
途方に暮れましたが、
すぐに同級生や親戚や
ボランティアの方々が駆け付けてくれて、
自分の家のように
一生懸命に片付けてくれました。
ご近所を始め、
友人たちの励ましには本当に助けられました。
改めて心から感謝いたします。

全壊認定

約一ヶ月後、
実家周辺の地域全体が「全壊」と
認定されました。
我が家は解体することになり、
その作業も昨年のうちにどうにか終了し、
あっという間に、
すべてなくなり更地になりました。

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被害を受けて一年、
慌ただしく変わっていきました。
実家がなくなったのは寂しいものですが、
故郷の街はまだ健在です。
復興に向けて着々と進んでいます。
川沿いに並ぶ温泉旅館も、お風呂はまだ使えないものの、
少しずつ客室やレストランを営業再開させています。
日本で有数のSLが走る鉄道も、
どのくらい先かはわかりませんが、
きっとまた煙を上げ走り出す時が来るでしょう。

克明に被害を記録した一冊の情報誌

人吉球磨地方の情報を網羅した地元情報誌「どぅぎゃん」
という雑誌があり、私も連載をさせてもらっています。
ちなみに「どぅぎゃん」とは地元の方言で「どうですか?」
という意味です。
この「どぅぎゃん」が、
編集部自体も被災したにもかかわらず、
被災翌日から
被災状況を丁寧に精力的に取材し、
各地に情報を発信していきました。
被災から2ヶ月後に出した「豪雨被害特集」は
発行後すぐに完売となりました。
その綿密な取材は評判になり、
先日、NHKのニュース番組
「おはよう日本」の中でも特集されました。

そして、一年目を迎えた今日
「どぅぎゃん」編集部の
この一年の取材をまとめた
写真集が発売されました。
あの日何が起き、そこから今日まで、
地元の人たちはどう動いてきたか、
街は、どう変わってきたかが、
克明に記されています。
日にちが経っていくと、次第に人々の記憶からは
忘れ去られていってしまうものです。
どうか、少しでも興味を持たれたら、
ご購入いただきたいと思います。
オンラインショップにて発売中です。

そしてもうひとつ、
ここまで読んでいただいた方に
ずうずうしくお願いするならば、
どうか球磨人吉地方の復興に
少しでもご協力いただければ幸いです。

最後まで、お付き合いいただきありがとうございました。

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